蚊学

カガクとブンガクの間をつなぐものは蚊学で*1、ヒガイシャとカガイシャを繋ぐものが火害者で、というような言語遊戯があるが、SKinsui's blogの「音と訓」では、いろいろ考えさせていただいた*2

雑考

漢語は連濁しないと言われ、ある程度そういうことはあるのだろう。この場合、新濁─連声濁は除いて考える。漢語の連声濁は、ほぼ音声的な現象であるといってよく*3、和語に見られる連濁とは分けておく方がよいだろう。和語の連濁も起源的には音声現象に遡ることはあっても、今なお新語でも生み出されている連濁は音声的なものでなかろう。

しかし、漢語にも、連声濁ではない連濁がある。「会社」という漢語が、「株式がいしゃ」となったり、「所帯」が「男じょたい」になったりするのは、「うむの下にごる」ではなく、カサが、アマガサやサンドガサになるような和語の連濁と同じだ。

本が「文庫ボン」になったりするのも同じ。


こうした漢語の連濁は、漢語が和語化したから連濁できるようになった、と言われることがある。


漢語・和語という、いわゆる「語種」は、出自できまる。でも、漢語が和語化するとかいうのは、出自の変更というよりも振る舞いの変更なのだろう。姿の変更もある*4


語種にも、セックスとジェンダーのような違いを考えた方がよいのか。(跳んだけれど、いわんとするところは分かるだろう)


で、その、出自の語種でなく、社会的な語種の場合、漢語と外来語は分ける必要があるのだろうか。


漢語と外来語の振る舞いの違いで、まず思い出すのが副詞の存在。漢語には副詞がある。

  • 俄然、面白くなってきました。
  • 到底、面白く思えないだろう。

のように、「に」や「と」を伴わなくても連用修飾が出来る。それに対して外来語の場合には、

  • スローモーにやってるね。

などのように、「に」を付けないと連用修飾できない。

  • クイックリー、やっておくれ。

などとは言えない。



外来語であるカンが、「罐」もしくは「缶」という字と結びついて漢語らしさを備えたとしても、その漢語らしさには、どの程度の意味があるのか。

まだ、書きかけ。

*1:椎名誠『蚊學ノ書』ASIN:4931391060 ASIN:4101448027、そう言う本かと思ったけれど違うのかな。

*2:関連のSK's Linguisticsにある漢字音分類表は綺麗に纏まっていて、似たような表を作ろうとしたことがある私としては、恐れ入りました、というところがあります。

*3:「うむの下、濁る」である。つまり、字音の-ngや-n,-mの次の字は濁る。

*4:和語が漢語化したと山田俊雄の指摘するアンコウなどは、アコなどからアンコウへと姿を変じた。