大文字メモ

享和二年に曲亭馬琴が大文字の火について書いている。

大文字火は十六日夕方より同時に火を点す、誠に一時の壮観なり。はじめに妙法の火、次に左り文字の大字、次に大文字なり。十六日昼より雨ふり黄昏に雨やみぬ。しかれども今夕大文字は火をともさず、十七日の夕火を点ぜり。その餘はみな十六日にてありし。昼より薪をつみをき、夕がた一時に火を点ず。当時は農民の山まつりなり、火を点すればみなあらそふて山を下る、もし久しく山にあるものはかならず病むといふ、陰鬼のおのづから集るにや。

羇旅漫録*1

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_03377/ru04_03377_0002/ru04_03377_0002_p0021.jpg

妙法・「左文字の大字」・大文字と三つしか、ここには書いていないが、その前に、

おなしをりに船かたの火
  ほの/\とあかしをともす夕くれに山かくれなき船をしそおもふ

という歌がある。さらに「予先年著述せし俳諧歳時記には横川和尚の筆としるしぬ」と言及する「栞草」を見ると、秋の部「せ」「施火焼《せびたく》」に、「大文字の火・鳥居の火・船形リの火・妙法の火」とあって、

凡、この月六日より薪を伐《きり》、点火するに至る。そのことに預《あづか》るもの数十家あり。今日申の刻、各|伐乾《きりほす》ところの薪を担《にな》ひ、山上に登る。凡、大文字一|画《くわく》、長さ百五十間余、五尺ばかりを隔《へだて》て薪木を積《つむ》事一|堆《たゐ》、その数四百八十余所。各薪を積《つみ》終りて後、日の没するを待《まち》て同時に火を点ず。この外、北山松が崎に妙法の火を点じ、船岡山に船形《ふねな》リの火を点じ、愛宕山には鳥居形の火を点ず。洛外所々の山岳、并に原野に諸人集りて、枯麻《かれあさ》の枝、樒《しきみ》の枝、破子《わりご》、公卿臺《くぎやうだい》の類を焼《や》く。これを聖霊の送火といひ、又|施火《せび》といふ。

と説く*2。「左文字の大字」とあわせれば、現行の五つに達する。今から二〇〇年少し前である。
「洛外所々の山岳、并に原野」というのもあるから、五つのほかにあったのだろう。また京都で「五山」というと、禅林の五つの寺を指すのが伝統的であったろうから、これらを「五山の送り火」などと呼ぶのはもう少し遅れるか。しかし、「諸山の送り火」という言い方は、日本国語大辞典の「送り火」の項を見ると、続史愚抄の元禄二年七月一八日に「諸山送火」とあるのが見つかる。

大文字ヤキ

梅棹忠夫『京都の精神』角川選書1987に、

この行事を「大文字焼」などとかいたものをみかけるが、無知もきわまれりというほかはない。「……焼」といういいかたは、タコ焼、チョボ焼、今川焼にしかもちいず、京都ではおそろしく野卑にきこえる。(中略)日常語としては大の字ほかすべてをひっくるめて「だいもんじ」とよぶ。
 第一、大文字は「やく」ものではない。大文字は「ともす」もの、京都語でいえぽ「とぽす」ものなのである。

とある(p.234)。


大文字焼き」への違和感は、吉田光邦『京都往来』1982*3にも、

このごろ大文字焼きなどというへんな言葉が流布しているけれども、たいやきや今川焼きではあるまいし、いったい誰がそんな奇妙な言葉を使いだしたのか。京都では大文字または五山の送り火、それ以外のいい方は誰もしない。

と見え、『国史大辞典』「大文字」(平山敏治郎)にも、

新しく大文字焼などといいふらしているが、京都にはこの語はなかった。

と見えるが、『言語生活』213(1969.6)の池上禎造先生の「ヤマボコと大文字焼き」があり、これが古いところか。「たまたま昨年二三回耳にした」とある。「あん入りの焼き餅にこの名をつけたものならば、現実にどこかで売っていそうでさえある」


大文字焼きとは言はない」というのは、NHKの『ことばのハンドブック』1992、戸板康二『新々ちょっといい話』、毎日放送『新・まちがいやすい放送のことば』平成8、にも見える。


日本国語大辞典を見るに、「大文字の火」というのが、上記の馬琴が書き留めるように、伝統的な言い方のようであるが*4、「大文字焼《ダイモジヤケ》」というのを、徳冨蘆花同志社で学んだ熊本人)が、大正初年の「黒い眼と茶色の目」に書き留めている*5。なお、大文字屋の火事のことを、孔雀楼筆記で「所謂大文字屋燒」と書いているのは、その背後に「大文字焼」という言い方があるかもしれない、とも思えなくもない。


手許にある「大文字やき」の用例を見ると、東京人、金田一春彦の『ことばの歳時記』(『ことばの博物誌』昭和41年)ぐらいまでしか遡れていない。


渋谷天外「わてらの年輪」(現代戯曲大系6 p.219)にもあった。セリフではない。1964年初演。

大文字焼も四五日前にすんで今日から子供のための地蔵盆が始まっている。

用例を探そうと思っても、大文字・小文字のものや、大いなる学問・文芸というようなものも混じるものから探すので面倒である。また「もんじやき」も混じってくる。

「大文字焼」

ヤケかヤキか分からぬ例が、潁原退蔵「京の夏と蕪村」(『洛味』昭和十年七月)著作集二十巻にあった。p.258



五山の送り火

この言い方、手許の用例では、『昭和の二万日』12で、昭和三七年に見えるものが古い(当時の用語であれば)。資金問題で一旦中止が決定された後、行われたらしい。

補遺

id:monodoi:20110817 でお教え頂きまして、栞草は、日次紀事に大旨因っているようです。
http://www.lib.ehime-u.ac.jp/HINAMI/07/14.html
日次紀事がネットで読めることも存じませんでした。

とりあえず

雍州府志の孫引き

毎年七月六日、慈照寺浄土寺両村民、登v山伐2松木1。長二三尺許、帰v家細割v之、日乾至2同十六日晩1。各携2此薪1登2山上1。山西北面有2大之字跡1。是弘法大師之所v書也、所々以2小石1為v徴、各合而視v之則字画分明也、凡大一字横一画、其長及2四十間1。其間炬火十箇余也、左竪一画八十間余、其間炬火二十箇、右一画六十八間、其際炬火二十九箇余也、所2携来1之薪木、積2置前所謂所v為v徴之小石上1。同時点v火、其光分明赫奕、是謂2亡魂送火1。洛人争観v之、凡両村民家割2此木1。為v炬其数四百余分v之、各主2或三四或五六1。争競而点v火、始此薪日乾聞、誤用2他事1則、其家必有v祟云、是弘法余威之所v及者乎、不v如v此則、何至2今日1。有2不易之理1乎、此外北山点2妙字法字1。或b作2船形1者a


滑稽雑談の孫引き

京都にて東岳の大文字、松が崎の妙法、舟岡の舟、愛宕の鳥居などいへるみなこれ施火といふものなり。

おまけ

鬼貫「独ごと」

次の夕は、火をもて霊送る、はかなし。山には大文字・妙法・舟やうの物、火をさしよする程はしばしこゝろもうき立侍れど、かたちあらはしてやがて跡なく消るも又はかなき。

(新古典大系『元禄俳諧集』)

*1:こちらに電子テキストがあって大変ありがたいが、この部分、「左り文字の大字」が「左り文字」になっている。底本の随筆大成の方は未確認。

*2:「施火焼」の項には、「日次紀事」という出典注記があるが、手許にないので未確認。

*3:1976年の文章とのこと。『朝日ジャーナル』連載「京のちゃあと」。

*4:馬琴は江戸の人だが京都の資料でも、そのようだ。

*5:「大文字(ダイモジ)が焼けるさかい」とも。