パブリック・ドメイン 鈴木大拙

https://app.box.com/s/jgjgj0e14lae1yf1q047wbktnz49fiwl

『禅とは何か』『無心といふこと』、ともに角川文庫です。


岩波文庫は、新しいものしか持ってないようでしたが*1
鈴木正三『驢鞍橋』の校訂がありました。

 正三道人の禪は日本禪思想史上特異の色彩を放つものである。傅統思想に始終するものは、正三禪を異端靦するかも知れぬ、又はこれを輕視して顧みないで居ようとするでもあらう。が、苟も一心の誠を竭して人生の大問題を解決せんと努力した人は、如何なる系統又は無系統の人であつても、その言ふ所、その經驗したところに對して、耳を傾けるが、眞摯な學人の爲すべきところであらう。  '
 正三禪には幾多の特處がある。彼は誰の禪を繼承したとは云つて居ない。多くの禪匠に參じたことはあつたが、誰に對して殊に心を傾けて修禪したとは云つて居ない。彼は自分の問題の解決に忙はしくして、あの公案はわかる、との公案はわからないなどと、看話禪者のやうに公案に捉へられぬ。彼は自分の求むるところは何處に在るかを知つて居た。『各〻は佛法好也。我は佛法を知らず。只死なぬ身となること一つを勤むるばかり也』と(驢鞍橋下、十二)、彼は云ふ。又『只|牙咬≪はがみ≫をして死ぬこと一つを窮むること也』(同上)とも云ふ。正三禪は日日の生活の上で『|死習≪しになら≫ふ』ことを體得するところに在つたのである。これが彼の修行であつた。驢鞍橋の到るところで彼は死に言及して居る。『我は死がいやなに因つて、|生通≪いきとを≫にして死ぬ身となりたさに修行はする也』(上、八十一)との聲明は、正三の修禪の全部であつた。

凡例
一 驢鞍橋の始めて刊行せられたのは、正三和向の歿後五年即ち萬治三年であつた。
  其後九年を經て寛文九年に再刊せられた。兩刊本の相違は各卷番號の記入の仕方に
  すぎぬ。本文も行数も各行の字数も枚数も皆同じである。
二 原木版本は何れも片仮名を用ゐ、漢字には大抵振仮名を附してある。但中卷には
  これが殆んど缺けて居る。現文庫本はすべて平仮名を用ゐ、振仮名は貢際上讃下し
  に便利を計るに止めた。
三 原本の仮名遣ひは大抵其儘にしておいた。明かに誤字と判斷すべきは書き改めた。
  例へば、仟を抔に、活達を闊達に、時の聲を鬨の聲に、肯を胸に、卯塔場を卵塔場に、
  各別を格別に、等の如くである。
四 當時の俗語又は方言と思はるるもので、一寸意味の通じ難きが如きもあるが、
  後の關係で大抵は推し得以れると偕する。
五 現文庫本を校訂し、正三和尚の傳記を調べ、三州石平山恩眞寺における正三和尚
   の遺蹟を凉尋ぬるなど、編者の勞を助けてくれた人、古田紹欽君の名をここに記して
   おきたい。
 昭和十八年夏
 湘南也風流庵にて
   鈴木大拙

岩波文庫の『盤珪禅師語録』もありましたが、新しい刷のものしか持っていませんでした。

凡例
一、語録篇「御示聞書」上下は寶暦七年刊の流布本を底本とし、「玄旨軒眼目」及び「龍門寺本」
 に依つて補訂した。補訂した個所は〔 〕印を以て示し、夫々その冒頭に書名を附した。單な
 る文章上の異同は特に示さなかつた。
一、漢文はこれを延書にした。
一、便宜のため段落を設け、且つ番號を附した。
一、( )印は編者が讀解の便を計るため插入せるものである。

一 僧問て曰、それがしは生れ附て、平生短氣にござりまして、師匠もひたものいけんを致されますれども、なをりませず。私も是はあしき事じやと存まして、なをさふといたしますれど、これが生れ附でござりまして、直りませぬが。是は何と致しましたらば、なをりませうそ。禪師のお示しを受まして、このたびなをしたふ存じまする。若なをりて國元に歸りましたらば、師匠の前と申、又私一生の面目とぞんじません(う)程に、お示しにあづかりたふ存まするといふ。
 禪師曰、そなたはおもしろいものを生れ附れ(い)たの。今も爰にたん氣がござるか。あらば只今爰へおだしやれ。なをしてしんじやうわひの。
 僧の曰、たゞ今はござりませぬ。何とぞ致しました時には、ひよとたんきが出まする。
 禪師いはく、然らばたん氣は生れ附ではござらぬ。何とぞしたときの縁に依て、ひよつとそなたが出かすわひの。何とぞした時も、我でかさぬに、どこにたんきが有ものぞ。そなたが身の贔負故に、むかふのものにとりあふて、我がおもわくを立たがつて、そなたが出かして置て、それを生れつきといふは、なんだいを親にいひかくる大不孝の人といふもので御座るわひの。人汝皆親のうみ附てたもつたは、佛心ひとつで、よのものはひとつもうみ附はしませぬわひの。しかるに一切迷ひは我身のひいきゆへに、我出かしてそれを生れつきと思ふは、おろかな事で御座るわひの。我でかさぬに短氣がどこにあらふぞいの。
 一切の迷ひも皆是とおなじ事で、我まよわぬに、まよひはありはしませぬわひの。それをみなあやまつて、生れ附でもなき物を、我慾で迷ひ、氣ぐせで、我出かして居ながら、生れ附とおもふゆへに、一切事に附てまよはずに、得居ませぬわひの。何ほど迷ひがたつとければ、一佛心にかえて迷ひまするぞいの。みな一佛心の尊ひ事をしれば、迷ひたふてもまよはぬがほとけ、迷はぬがさとりで、外にほとけになりやうはござらぬわひの。身どもがいふことをそばへよつて、とつくりと能のみこんで、きかしやれい。

*1:『日本的霊性』『東洋的な見方』