パブリック・ドメイン 魚返善雄の追加

閲覧数が一番多いのが、魚返善雄のようです。
https://app.box.com/s/9lkjd1kdzmsxatu8myeiow9clealyl2v
ですから、いくつか追加しております。


『「論語」新訳』
https://app.box.com/s/05jj3uy4ib40kkpqhri5b8g4e6ik2am8

 この本は「論語」の全文を現代日本語に訳したもので、原文のリズムと発言者の気分をあらわすことに注意し、いわゆる逐字訳や説明訳を避けた。
「原文」(漢文)には句読点のほか、「 」をつけて発言や対話の部分をわかりやすくした。「訓読」においては、日本人のしばしば引用する伝統的な読みくたし文をかかげたが、現代の日本文にあまり使われない字はカナで示した。
「華語」訳は特にこの本のために用意したもので、中国版の白話訳を流用したのではない。
 以上四種の「論語」テキストは、それぞれ独立のものとしてあつかうこともできるが、同時に一連のものとして比較対照するため、原則的に句の順序と句読点を一致させてある。

〔一〕先生──「ならってはおさらいするのは、たのしいことだね。なかまが遠くからくるのは、うれしいことだね。知られなくても平気なのは、りっぱな人じゃないか。」
   〔注〕「先生」とあるのは、門人たちにとって大先生である孔子のこと。
 〔漢文〕 子曰、「學而時習之、不亦説乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。」
 〔訓読〕 子イハク、學ビテ時ニコレヲ習フ、マタ「ヨロコ」バシカラズヤ。トモアリ遠方ヨリキタル、マタ樂シカヲズヤ。人知ラズシテ「イキドホ」ラズ、マタ君子ナラズヤ。
  〔華語〕 孔子説、「學了又時時地實習、不也宜高興嗎? 這麼着就有同志的人由遠方來了、不也更快樂嗎? 就是人家不曉得自己、自己也不彆悶、不也是君子的態度嗎?」


〔二〕有先生──「人がらがすなおなのに、目上にさからうものは、まずない。目上にさからわないのに、むほんをするものは、あったためしがない。土台がだいじだ。土台あっての道だ。すなおということが、人の道のはじまりだな。」

〔三〕先生──「おせじや見せかけに、ろくなものはない。」

〔四〕曽(ソウ)先生 ──「毎日ふりかえることが三つ。人にまこころをつくしたか。友だちにすまないことはないか。教えは身についているか。」

〔五〕先生──「大きなかまえの国ほど、まともな政治をし、つましくなさけぶかく、人はひまひまに使うこと。」

〔六〕先生──「若い人は、うちではすなお、そとでもおとなしく、よく気をくばり、みんなにやさしくして道をまなぶこと。そのうえひまがあれば、学問にふりむける。」

〔七〕子夏──「色よりはチエを買い、親のためには苦労をいとわず、国にはすすんで身をささげ、友だちづきあいに、ウソをつかなければ、無学な人でも、学問があるというわけさ。」

〔八〕先生──「上の人は軽いと押しがきかぬし、学問も練れない。まこころを第一とし、つまらぬ人とつきあわぬこと。あやまちはアッサリあらためよ。」

〔九〕曽先生 ──「とむらい供養のしかたで、気風がずっとよくなるものだ。」

〔一〇〕子禽(キン)が子貢にたずねる、 「うちの先生はどこの国にいっても、きっと政治にかかりあうが…。たのむのかな、それともたのまれるのかな。」子貢──「先生はオットリとへりくだっていてそうなるんだ。先生のやりかたはだね、こりゃどうも人のやりくちとはちがってるね。」

角川文庫の『菜根談』も
https://app.box.com/s/avombivtofs60xmf3h1w2u8bmp83a56w