「不可能」と「能くすべからず」

しつこいようですが、今日も漱石造語伝説。
http://d.hatena.ne.jp/kuzan/20080424/1209051941
ここに書いた、半藤氏の文章の前段に、不可能・反射・無意識も「漱石先生が時代の尖端を切って」とか「新語」とか書かれていた。


このうち、「無意識」は、半藤氏が、

無意識もさきの「新訳和英辞典」にはじめて登場したという。

と書いている。「さきの」というのは、「不可能」のことについての部分で、「新訳和英辞典」は明治四十二年刊で、「猫」の第八章の明治三十八年の方が早い、といっている部分をさす。

しかし、半藤氏の見た『明治のことば辞典』で、「無意識」を引いてみると、『猫』よりも古い『ことばの泉』明治31が、これを載せているとある。

心理学の語、感覚の度甚だ弱き時又は一層強き感覚のために、元の感覚がうちけされなどして、感覚の意識の中に現れざること。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40077905&VOL_NUM=00000&KOMA=684&ITYPE=0

「反射」に至っては、『明治のことば辞典』を見れば、明治六年の『独和辞典』に載っているし、新漢語を載せていないはずの『言海』にも収録されている語であることも分かる。


以上のように、「無意識」「反射」は、半藤氏がよったとしている『明治のことば辞典』を開いて見るだけで、漱石以前の例が見つかるもの。

単純なのはさておき「不可能」

今日のメインテーマは「不可能」。これは『明治のことば辞典』を見ても、たしかに、明治四十二年の『新訳和英辞典』が古いものである*1


日本国語大辞典』第二版を見ても、最古例は『猫』である。漢籍の用例も挙げられてない。



なぜ、日本国語大辞典漢籍の例を挙げていないのか。それは、『大漢和辭典』が「不可能」の用例を挙げていないこともあって、「不可能」の漢籍での用例が拾えなかったからであろう(用例がないため、大漢和辭典の語彙索引にも取られていない)。


また、『大漢和辭典』が用例を挙げていないのは、「フカノウ」と音読される一語としての「不可能」に当たる例を拾っていないからであろう。


しかし、漢籍には「不可能」という文字列がある(たとえば『中庸』に「中庸不可能也」とある)。これを訓読(クンドク)する際に「フカノウ」と読むことは、まず、無いだろう。「よくすべからず」か「あたふべからず」と、訓読み(クンヨミ)にするであろう*2


このように、訓読みされていたものが音読みされるようになる、というのがどのような現象であるのかは、別途考えねばならない問題であるが、幕末から明治にかけての漢学隆盛時代、また、齋藤希史『漢文脈と近代日本』ISBN:4140910771、訓読文における音読語の増加が思い起こされる(この日の記述と関連)


太陽コーパスisbn:4861151562と、1895年(『猫』の10年前)が1件であるのに、1901年(『猫』の4年前)は、36件と急増しているのが目を引く。

之が豫言を爲すことは到底不可能のことなりと主張するに過ぎず
太陽1895年1月号p19 無署名「海外思想」

*1:『猫』の用例にも言及する。明治十七年の「再版哲学字彙」の「不可能明」なども挙げるが、そこまでである。

*2:たとえば、「自然真営道」では、「中庸不可能也」は「中庸ヲバ能クスベカラズ」などと引用されているようである