パブリック・ドメイン 武内義雄

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岩波新書の『儒教の精神』

はしがき
 儒教支那に起った教であるが、はやくから日本に傳はって、我が國民精神の昂揚に貢献するところが多かった。とはいふものの、日本と支那とは國情も違ひ歴史も異ってゐて日本の儒教支那のそれと全然同じであったとはいはれない。雨者の間には無論共通點も多いが特異鮎もまた少くはない。そこで本書は先づ支那儒教の梗概を記してその精神のあるところを示し、次にそれが我が國に入って如何に日本化されてきたかを説明しようと試みた。
 本書の前半支那儒教を論じた部分ぱ、昭和三年[岩波講座世界思潮]のために「儒教思潮」と題して寄稿したものをかき改めたのであるが、その後半日本儒歌の記述は今度新らしく筆を起したもので、著者としては最初の試みである。著者はまだ日本儒教に對して深い研究をとげたものではない。が然し猶よく本書を草し得たのは荊棘を拓いた先輩の功績に負ふもので深く感謝しなければならない。
 本書の起稿にあたって參考することのできた先輩の名著は、故岡田劍西博士の「近江奈良朝の漢文學」*1、故西村碩園先生の「日本宋學史」*2と「懐徳堂考」*3、故内藤湖南先生の「近世文學史論」*4と「日本文化史研究」*5、井上巽軒博士の「日本朱子學派の哲學」*6、「日本古學派の哲學」*7及び「日本陽明學派の哲學」*8等である。

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支那文字学」(岩波講座日本文学)

敍論
第一章 文字の形
  一、字形の變遷 亀甲文、金文、刻石文、秦篆の制定、籀文と秦篆、籀文と古文、秦の八體書、
    隷書と楷書、楷書の統一、草書、文字の整理と説文
  二、文字の構造 許愼の説文解字、六書、轉註の異説、狩谷掖齋の轉注考、象形、指事、會意と形聲、部首の排列、金文甲文による訂正
第二章 文宇の音
   一、音韻關係の文獻
   二、音韻の變遷 李登の聲類、陸法言切韻、孫愐唐韻、李舟切韻、廣韻、韻英と考聲切韻、平水韻、洪武正韻、日本に保存せられた諸音
  三、古韻の研究 顧炎武、江永、段玉裁、王念孫と江晉三、孔廣森の陰陽對轉説、大島博士の十部二十一韻説、王國維 の五聲説
第三章 文字の意義
    本義と轉注義と假借義


 支那に於て漢宇の研究が文字學と呼ばれるやうに成つたのはつい近頃のことであるが、その研究は少くとも二千年前の昔から始まつてゐる、但し昔はこれを文字學とは呼ばすに小學と呼んでゐた。これを小學と呼んだのは當初にあつては文宇の學問を經學の入門として幼童に授けたためであるが、今日に於ては文字の研究が非常に複雜なものとなつて經學の入門といふよりは寧ろその基礎根柢をなすものとして立派な專門の學問と成つてしまつた、さうしてそれは單に經學だけでなく支那の交獻を材料として取扱ふすべての學問の基礎と成るべきものである。輓近清朝の學問が非常に精緻なものとして尊敬せられるのもこの基礎が鞏固であつたが爲めで、清朝の大儒戴震が「經の至れるものは道也、道を明かにする所以のものは道也、道を成す所以のものは字也、必す字によつて其辭に通じ、辭によつて其道に通じて乃ち經を得べし」といつたのは經學の基礎が文字學にまたなければならないことを道破したものであるが、これはまた漢字によつてかゝれた文獻を取扱ふすべての學問についても同じことであつて、日本の文獻も漢字を離れてゐないのであるから日本の研究者としても、支那の文字學を一暼されることは強ちに無益なことでもなからう。
 日本の假名は音符文字であるから一字一字に一定の形と書とを有するのみで意義をもたないが、漢字は象形を主とする文字であるから字毎に形と音との外に意義を持つてゐる、從つて漢字を研究するには形と音と義との三面から考察をする必要がある。凡そ人の思想は言語に表され言語は文字に記録せられるもので、文字の義はその思想であり、音はその言葉であり、形は文字そのものである、表現の順序からいへば思想が先で言語が之に次ぎ文字が最後であるべきだが、研究の順序からいへば文字の形からはじめて音と義とにうつるのが便利である。そこで先づ文字の形について考察し、次にその音と義とに遷らう。

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岩波文庫の『論語』旧版はスキャナのADFとの相性が合わず断念。


「はしがき」だけ、入れました。


同じく岩波文庫の『老子』は、新しめの刷しか手許にありませんでした。
はしがきだけ、不完全な校正ですが。

 儒教以外の支那の典籍で、老子ほど本文に異同が多く、解釋の多岐に分れて居る書物は蓋し稀であらう。從つて老子を飜譯するには、第一に如何なる本文を選ぶか、第二に如何なる解釋に從ふか、第三に如何に飜譯するかの三段の工夫が必要である。
 老子の本文はその種類が甚だ多いが、最も根本的な異本は、一王弼本、二河上公本、三傅奕本、四開元御註本の四種で、後世諸家の相逹は此等四本の取捨如何によつて生じたものである。四本の中傅奕本は道藏慕字號に收められた道徳經古本篇で、清儒孫星衍が攷異を附した本が平津館叢書中にあり、日本の官版にもその覆刻本が存する。この本は初唐の道士傅奕が河上公本・王弼本等數種のテキストを比校審定した本であるといふから矢張り河上公・王弼の二本に本づくものと見られる。次に開元御註本は唐の玄宗が開元二十年に自ら老子を註し勅して諸州の道觀に石蘯を造つて之を刻せしめた本で、易州の龍興觀と順徳府とには今も猶當時の石幢が存在して居り、佛京國民圖書館には敦煌出土の唐鈔殘卷が保存せられ、また道藏男字號にも刻入せられてゐる。元來玄宗老子の註を作るに至つた動機は當時老子の本文に異同が多かつたのを一定することと王弼・河上公の二註の優劣問題が喧しかつたため之を歸一するためとであつて、この二重の目的を達成するために帝は先づ天台山に隱棲してゐた道土司馬承禎をお召になつて老子の文句を刊定せしめ、又自ら註釋を書いて天下に頒布し、又左常侍崔汚沔に命じて道士王虚正・趙仙甫等とともにその疏を作らしめ、後に杜光庭は此註を敷衍して廣聖義三十卷(道藏羔・景・行字號)を作つた程で一時天下を風靡した老子の經本であり註釋であつたが、これ亦王弼本と河上公本を基礎とするものであるから、現存する老子の諸本は畢竟王弼本と河上公本に淵源するものといつてよい。
 所謂王弼本とは魏の王弼(西紀二二六ー二四九)が註釋した本で、現存老子諸註中の最も古いもので、又尤も優れた註釋であるとせられてゐる。そこで數年前私が「老子の研究」を公にした際は王弼の經本によつて析義を試みたのであつたが、此度の譯註は河上公本によることとした。王弼本をすてて河上公本を採用した理由は、王弼本には信據すべき善本が殘つてゐないため之を訂正するために非常に繁雜な考證を經なければならないことと、往年既に試みた同じ方法をくりかへすことをさけて別な方面からよいテキストを提供したいと思つたからである、
 さて河上公註は漢の文帝の時河上にゐた隱士の作であると傳へられてゐるが、その解釋から考へると早くとも六朝の初頃のものらしく王弼註よりは後のものであるらしい。從つて河上公本は王弼本よりも後のテキストであるが、王弼本が宋以後版本の流を汲んだ粗笨なテキストしか存してゐないのに反して、河上公本は敦煌出土の唐鈔本もあり、奈良平安の昔我が國に將來せられた舊本を鎌倉室町期に轉寫された古鈔本も現存して居り、又易州龍興觀の景龍碑、丹徒蕉山の廣明瞳の如く唐代の碑幢も殘つてゐるのであるから、現行の王弼本よりは更に舊形を存してゐるものが多いから、テキストとしては尤も信據に値ひするものといへる。
 宋の謝守〓の老君實録(又太上實録ともいふ、今道藏中に存する太上老君年譜要略、太上混元老子史略・混元聖紀の原形なるべし)によると唐の傅奕が老子校勘したとき河上公本には五千三百五十五字の本と五千五百九十字の本と二種のテキストがあつたといふ(焦弱侯の老子翼卷五引)。寡聞の及ぶところこの字數に一致する河上公本を見ないが私の所藏する室町期の古寫本は五千三百二宇と記して居り、敦煌出土の古寫本には四千九百九十九宇と註してゐて前者は後者より助字が多く又時に後者に存しない句もあるから、唐以來河上公本に詳略二本の存したことは確實である。然らば同じ河上公本にかくのごとき相違を生じたのは抑も如何なる理由によるか。陸徳明の経典釋文によると南北朝の頃河北と江南とは風俗言語を異にし、その講習する所の經籍にも異同の多かつたことが知られ、又顔氏家訓の書證篇に「也是語已及び助句の辭、文籍傭に之有り、河北經傳悉くこの字を略す、又俗學者あり、經簿中時に也の字あるべきを聞けば輒ち意を以て之を加ふ」といつてゐるのを思ひ合すと、老子河上公本に詳略二種のテキストが生じたのはその流布した地方の語氣の影響によるもので、北方は語氣が急で南方は緩であるため、北方のテキストは自然助句の辭が刊落せられて簡潔になり南方のテキストは助句の辭が増加して長くなつたものであらう。現に敦煌出土本に類する景龍二年刻立の道徳經碑が河北省易縣に存在し、又此と略z同種類の碑が四川省遂州にもあつたといふことと、本邦舊鈔本に類似する河上公本の經幢が江蘇の泰縣から發掘せられて現に鎮江の北に當る揚子江中の名山焦山の寺中に保存されてゐるのを思ひ合すと右の想像の誤ないことを苜肯せらるゝであらう。要するに本邦舊鈔本は六朝時代に於ける南方のテキストを傳へたものであり、敦煌出土本は北方のテキストであつて、雙方に長所もあれば短所もある。そこで本書は本邦舊鈔本を底本として之を敦煌本に對照し、前者に存して後者に刊落された文字は〔 〕で圍んで、一目の下に兩者の相違を悟り得るやうにした。
 本邦舊鈔本は現にどれ程殘つてゐるか到らないが寡聞の及ぶ所では正倉院聖語藏所藏のものが最も古いらしい。此本は輓近佐々木信綱博士によつて發見せられ吾師狩野君山先生によつて攷證が加へられて景印されたもので、其筆冩年代は明記されてゐないが、その筆跡から考へると鎌倉末期の鈔寫にかゝるものらしく、現存河上公注老子の最も古いものである。但惜しいことには下卷だけが殘つて上卷を失つてゐることである。次に吾師内藤湖南先生の秘藏に係る一通がある。此本の末尾には頼業、教隆、直隆、俊隆の奧書があつて、王朝以來明經博士の學業を傳へた清原家の傳本で由來正しいテキストであるが惜しいことはこれ亦完本でない。次に大阪府立圖書館に保管されてゐる天文十五年の寫本がある。此本は浪華の舊儒伊藤介夫翁の遺物で毎章章名をあげず欄外に「道可道第一、一本體道第一」の如く開元註本の章名と河上公本の章とをあげてゐるが、その本欄に章名をあげないところ古い形を傳へてゐるものと思はれる。次に鄙藏一本がある。此本は元第二高等學校教授、東北大學講師瀧川君山先生の舊藏に係り、私がかつて「老子の研究」に借用したところで、その仙臺を去られたとき記念として贈られたものである。此本は鈔寫年代を詳にしないがその筆跡から推して室町時代の筆寫に係るものと推定せられる。其内容を聖語藏本と對照すると字々吻合するから相當善本であることが判る。そこで本書の底本にはこの鄙藏本を使用した。
 敦煌出土本は英のスタイン、佛のペリオによつて支那甘肅の敦煌縣千佛洞から發見されたものでその大部分は英佛兩京に持ち去られたが猶一部分は支那及日本に散在するものもある。私が初めて敦煌出土の河上公本を見たのは畏友石濱純太郎君が渡歐の記念に佛京國民圖書館所藏の殘卷の寫眞を贈られた時であつた。それはペリオ目録二三二九に當るもので第一章から第廿一章迄の殘卷で、其首に老子序訣の終の部分がついてゐる本である。其後私は又山田孝雄博士の好意によつて中村不折翁所藏殘卷下卷の第卅九章から第五十二章に至る寫翼三葉を借覽することを得たが、一昨昨年佛國に遊ぶに及んで親しく佛京圖霽館に於いて上記二通の殘卷と略z同紙墨と思はれる下卷第六十六章より末尾に至る殘卷一通(ペリオ目録二五九九)を見出して撮影して歸つた。この殘卷の末尾には「道經卅七章二千一百八十四字 徳經卅四章二千八百一十五字 五千文上下二弓合八十一章四千九百九十九字 太極左仙公序、係師定、河上眞人章句」の四行が存してゐて前記二通と相まつて河上公本の首末を窺ひ得たことを悦んだ。同時に又「老子徳經下」と題する完本一卷を見て之を照寫して歸つたが、此本も亦上記三通と同じ系統のもので最後に「道継卅七章……河上眞人章旬」の記載があり、更にその後に天寶十載正月廿六日に敦煌神泉觀の清信弟子索栖岳が三洞法師中岳先生□□□について道徳五千文の經を求めたために此卷が寫された意味が記されてゐて、その鈔寫年代が明記されてゐるのもうれしい。以上四通の敦煌寫本を綜合すると老子道徳經の下卷は完全に存在して一部分は重複さへしてゐる。但上卷はその上半を存するのみで第廿二章から第卅七童に至る十五章を闕いてゐるのは殘念である。しかしこれら寫本を現在老子の諸本に對校すると、道藏罔字貔所收道徳眞經次解の本文は字々敦煌本と吻合し、又易縣龍興観に現存する唐景龍二年の道徳經碑も略z敦煌本と一致するから、この二本によつて闕佚する部分を補ふこととした。道徳眞經次解はその撰者を詳にしないが、その序によるに四川の遂州龍興觀に存する碑を底本としたもので、寵興觀は唐の中宗の時代に建てられた道觀であるから、その碑も恐らく易縣の景龍碑と略z同時に刻立せられたもので、敦煌出土本とともに河上公本の北方のテキストであらう。そこで私は本書の底本として本邦舊鈔本を採用し敦煌本に對照して河上公本の詳略二本の相違を示し、敦煌本の闕けた部分は景龍碑と遂州碑とで補つた。さうして四本の異同するところは脚註にあげることとした。もし諸本の異同をあげる如きは紙幅の狹い本書の能くするところでなく徒らに煩雑をますのみであるから、本書はたゞ河上公本の精善なテキストを提供することに滿足しなければならない。


 既に本文を河上公本に採つた以上、その解釋もまた河上公註に從ふべきであらう。しかし河上公註は必ずしも老子の本意を傳へてゐるものでなく、讀者を首肯せしむることは困難である。そこで本書の訓讀には必ずしも河上公註を墨守することはせず、寡聞の及ぶ限り諸家の説を參酌して最も妥當なりと考へられるものに從ふこととした。
 數年前私が「老子の研究」を公にした際には、特に韻脚と文體とに注意して各章を更に細かく分析して新舊を分ち錯亂を正して前後の文に攣肘せられることなく各部分の本來の意義を闡明しようと努めたが、今度は餘り甚しい曲解に陷らぬ限り、成るべく各章を一貫したものとして解釋しようと試みた。しかし私は決して前の態度を放棄したものではない、勿論數年前の鄙見に訂正を要しないとは自惚れないが、批判的に老子を見ようとすれば、矢張り前の態度を持續すべきだと思つてゐる。但し本書は河上公本の原形を存して、それに本づいて成るべく妥當な解釋を求めようとしたもので、自ら前の態度と異ならざるを得ない。
 河上公本は老子全經を八十一章に分けて、後世老子を註釋するものは多くその分章に從つてゐる。しかし漢書の藝文志には老子傅氏説三十七篇をあげて、牟子理惑論にも老子道経三十七章といつて居り、又易縣の景龍碑は六十四章に分けてゐて、近代元の呉澄は八十一章の區分のいはれなきを論じて六十八章となし、清の魏源の老子本義も呉澄の分章に少しばかりの訂正を加へて矢張り六十八章としてゐる。さうして清の姚〓は一家の文章觀に立脚して新らしく八十二章を分つてゐるかと思ふと、日本の葛西因是は二十一節の區分を立ててゐる。かくの如く河上公本の分章は絶對的のものとはいへないが便宜上その分章を保存して、幾章を綜合して見るべきものには本文の末に之を註記し、一章を幾章かに分つべきものは一行づつ空行をおいてこれを分別した。さうして一章の内で節段を分つべきところは盡く行を改めることにした。
 なほ老子の半ばは韻文であつて韻の變るところ、又は韻文が散文に移るところが、節の改まるところである場合が多い。そこで韻脚にあたる文字の左側に圈點。と黒鮎・とを交互に用ひて用韻の變化を示した。
 最後に之を飜譯するにあたつて種々の註釋を參考したが、 一々これを列擧することはさけ最も妥當と思はれる説に從つて譯出した。さうして特に解説を要する文字には月形括弧〔 )の中に註し、又本文の簡約にすぎて挿句を必要とするところは龜形括弧〔 〕を施してこれを補つた。文字に假名を附したものはそのところにおける意味を最も適切にあらはし得ると思はれるものを撰んだが、中には字書等にも見えない訓を附したものもあることを諒とせられたい。
 猶敦煌寫眞撮影につき齋藤報恩會の補助を忝くしたことを記して深く謝意を表する。

昨日の補

武内義雄儒教の精神』と同じ、岩波新書・旧赤版の鈴木大拙『禅と日本文化』は、訳者・北川桃雄の没年が1969年です。
http://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00032068


著作権切れを三年後に迎えることは出来るのでしょうか。