昔噺・テレビに出た話

あまり、自分の職業に付随した話は書くまいと思っているのだが、ちょっとだけ。あるある問題を眺めての感想でもあり、先日の「テレビへの慨歎」のつづきでもある*1


テレビ関連からの電話取材は何度も受けたが、実際にテレビに出たことが二度ある。最初の一度は、悪い思い出はないが、もう一度は最悪で、もう二度とテレビなどには出るものか、と思った。


その二度目の方の話。


まず、
http://kotobakai.seesaa.net/article/8173613.html
を見たらしい人から電話があった。「ヴ」について知りたいようだったが、何が知りたいか、今ひとつはっきりしない。楳垣実氏のようなことをやっている人は居ないか、というようなことも問われたように思う。そこでいう「楳垣実氏のようなこと」というのは、「ヴは、福沢諭吉創始者である」というようなことを言っている人のようでもあった。
その時は、福沢諭吉以前から「ヴ」がありそうだ、ということを話すなどしたが、これということもなく電話は終わった。


聞かれたことにより、ちょっとだけ調べてみると、諭吉以前に「ヴ」があることが明らかになった。


数日後電話があった。しゃべって欲しいというのだ。突然の話に驚くが、どうやら慶應の筋の誰かにあたったが、断られたらしい。私は、気が進まなかったが、17世紀初頭の切支丹資料に見える「ヴ」や新井白石の「ヴ」*2などについて話しているうちに、「福沢諭吉が、「自分が作った」と言っている」ということならば言える、ということになった。金曜か土曜で都合の良い時間帯は、と問われ、土曜の午後なら研究会で学校にいるから、その前後なら、と伝えた。


その数時間後、電話があり、「土曜の朝8時に空港に着いてそちらに向うので、そのころ居て欲しい」という。話が違うと思うが、押し切られる。


当日、やって来たのはアナウンサーとカメラマンともう一人。この一人が取り仕切っている。進行表を見せられてびっくり。私は、「福沢諭吉が作った」ということになっていて、そこでアナウンサーが、「えー!? あの福沢諭吉がーっ?」と叫び、そこに一万円の画像が踊る算段になっている。
そして、漫画などにみられる「あ゛」のような表記に話を繋げるようになっている。


私は、なんとか、福沢諭吉以前の「ヴ」についても話をしたいと思い、姑く待てと、その進行表に沿うように、しゃべるべきことを整理した。


そして、カメラが回り、語ったわけである。「福沢諭吉が「自分が作った」と言っています」に始まり、福沢諭吉以前にも濁点を拡張して使うことがあったことを語ったのだ。アナウンサー氏は、江戸時代の「ア゛」*3などに関心を示してくれたように見えた。最後に、漫画などの「あ゛」について感想を求められ、まあ言語遊戯的なものでそういう言語感覚を楽しむ云々と無難なことを言って撮影は終わった。


福澤自身の証言については、「福沢全集緒言」に見える*4わけだが、制作会社は後の『福沢全集』の画像しか準備していないのと言うので、「全集緒言」の初出である『福沢全集』を貸した。もちろん、貰った名刺のウラに借用証を書いてもらった。


この日、私が受け取ったのは、名刺だけだ*5。土曜の午前中にわざわざ出てきたのに交通費にあたるものもくれない。まあ、職場だからいらないと思うのだろうが。撮影が終わったのは十時前で、研究会は二時頃からだから、一旦、帰宅することにした。すると正門あたりで、彼らが撮影しているのが見えた。ここまでわざわざ聞きに来ました、という図らしい。


数日後、放送されたものを見て、私は愕然とした。


私の話したことで使われたのは、「福沢諭吉が「自分が作った」と言っています」の部分と、どうでもよいコメント部分だけで、福沢諭吉以前の濁点については全てカットされていた。一切流れなかった。


だまされたという思いである。結局、テレビ制作側がこちらに求めているのは権威づけだけだ。自分達の描いたシナリオの中で、学者がこう言った、ということが欲しいのだ。

私のように無名な人間の場合には、出演者への権威づけのやり方があるようだ。私が「ヴ」のような表記について関心があるということはweb検索で知ったと思われるのに、テレビの中では、I書店のk辞苑編集部の人に私を紹介させている。「そのことについては大阪の○○さんが調べてらっしゃるようですよ」。私はその人とは会ったこともメールを交わしたこともないのに*6

また大学の正門の様子を映しているのも権威づけだろう。遠くまできた、というだけなら空港の映像でもよいはずだ。


テレビに出た影響は、ことばに関する質問の電話がそれまで以上にかかってくるようになったことぐらいで、これは面倒なだけ*7


知人でテレビをたまたま見ていて驚いた人もいるようだが、後日「幾ら貰った?」と聞いてきた人もある。上にも書いたように、一銭ももらっていない。番組オリジナルグッズなどの物品も貰っていない(欲しくもないが)。


言語伝説を拡げるのに加担してしまったし、くたびれ損のいらだち儲けである。


そういえば、このコーナーも、たしか〈やらせ〉かなにかで、打ち切りになったはずだ。


探したら、ディレクターの名刺が出てきた。テレビ局の名前が大きく書いてあるが、下の方に下請け会社の名前が書いてあった。こちらは本の借用書を兼ねていたので棄ててなかったが、アナウンサーの名刺は見当たらない。

*1:漱石 新陳代謝」のような検索語で訪れる人は結構いるようで、ちょっと驚くとともに、書いておいてよかったとも思う。

*2:vを表すものではない。

*3:有声のh子音を持つア

*4:「原書のVの字を正音に近からしめんと欲し試にウワの仮名に濁点を附けてヴワ゛と記したるは当時思付の新案と云ふ可きのみ」(近デジ

*5:その後、受け取ったのも、「資料をお返しします」の一筆を書いた紙だけだ。

*6:その人がweb検索して教えた可能性もあるが。

*7:ごくまれに、「そこまでは調べたんですね」とねぎらいたくなる例がないでもなく、こういう人には教えてあげたくなる