アインシュタインと言えば

思い出すのが、松下大三郎「ア氏の相対性原理は迷妄なり」(国学院雑誌 大正12年1月)。

 何事ぞ、此の相対性原理は其の根柢の仮定が全く迷妄である。迷妄の仮定の下に立てられたる一切の理論は亦悉く迷妄であつて、其の全体系は凡ゆる背理と矛盾とを以て満されて居り到底成立ち得べきものではない。
 ア氏の相対性原理は悉く迷妄であるにも拘らず、其の体系は実に壮大で、其の理論は実に巧妙で、其の数学は誠に高遠である。学者は其の体系の壮大と数学の高遠とに眩惑し、其の理論の巧妙に随喜して其の根柢の仮定に対する批判を怠り、うか/\と毒酒の美味に酔はされて仕舞つたのである。
 ア氏の相対性原理は、ア氏の直観的独断を基礎とし、多次元幾何学と絶対微分学とを利用して宇宙一切の物理的量を幾何学的に論じたものである。世人は多く、高遠な数学が分らなけれは相対性原理は分らないと思ふ様であるが、必ずしもそうでない。成程計算には数学が入るが、理論に於ては高遠な数学に精通して居る必要はない。唯多次元といふことの概念と微分積分といふことの概念だけで十分だ。即ち相対性原理は常識で分るのである。常識で分らないのは計算だけである。

論文末尾は以下の通り。

 アインスタインは相對性原理の邪路に迷ひつゝも其の迷へる地方から三つの土産を持つて來た。曰く「エーテルの否定」曰く「光源の運動は光速度に關係しない」曰く「光は引力の場に於て彎曲する」此の三つはアインスタインの發見した眞理である。相對性原理は消滅しても此の三つの眞理と共にアルべルト、アインスタインの功績は永久に朽ちない。コロンブスが印度を發見することは出來なかつたけれども却つて西印度を發見し得たやうなものであらう。アインスタインは依然として物理學界の偉人である。それは自ら相對性原理を取消すことに於て益其の偉大の度を加へるであらう。

実は、松下大三郎は、

 僕が今まで読んだ書物の中で、最も感心し最も嬉しく感じたのは、弓張月と山田孝雄氏の日本文法論とアインシュタインの相対性原理と○○とである。
と言っていたというのを、松尾捨治郎が追悼文で書いています。松尾捨治郎は「アインシュタインを愛読されたのは何人も意外に感じられるであらう」と書いていますが、「ア氏迷妄」を知っている人にとっての意外感と、知らない人の意外感は異なりそうです。

「ア氏迷妄」と松尾捨治郎「松下君を憶ふ」、ともにこちらから。
なお、「ア氏迷妄」の文中に、被差別部落に対する、かなりな、あまりな言及があります。江戸時代の話として例に出しているのでしょうが、ちょっと驚かされます。




また、改造社・山本実彦の「アインシュタインの片影」が、網迫の乞校正にありますね。

アインシュタインは来日したとき、私の母校(当時は中学)を会場に講演をしたようです。講演時の黒板はニスを塗って保存していたようですが、行方不明になったと聞きました。その後出てきたりしてないのかな。
記憶違いでした。黒板は貸しただけ。行方不明になったのは、戦時中の物資不足の際に補習科の黒板として……。

申し遅れましたが、これは、「黌門客」の2005-03-22を読んで、思い出したことどもです。