淡交

内田樹の研究室」の2005年05月22日分を読むと、丁度私の世代を「ややこしい人間関係を「好まれない」という点を世代的な徴候としている」と評しておられ、まったくもってその通りだなと思う。「淡交」が好きだし、相手も淡交を求めているだろうと思ってしまうのだ。
 また、「社会問題を論じるときに「悪いのは誰だ?」という他責的構文で語ることをつねとされていて」、子どもの保護者として学校に怒鳴り込むことが多いのもこの世代の特徴と内田氏は記す。「他責的構文で語る」と言われると耳が痛いが、一方で私が学校に怒鳴り込む(あるいは進言する)ことをしようと思わないのも、ものごとに関わってゆこうとするエネルギーが自分に不足しているからだろう。
 観光地で不親切な案内板のために道を迷いそうになったとき、目的地近くで道案内をしていたボランティアらしき小父さんに、「どうして、迷いそうなあのあたりで案内してくれないのですか」と言ったことはある。その時の心境を考えると、自分が迷って困った、ということもあるが、このままでは今後も迷う人が出続けるだろうという思いからの進言であった。帰るときに、案内板に、分かりやすくなる補助線を書き込もうかと思ったぐらいだ*1。エネルギー不足ながらも、「世のため人のため」を考えていない訳ではない。「コミットメント」世代の人から見ると、まだるっこしく見えるのだろうが。

ネット上での行いも、自分と同じような関心を持つ人との情報共有のために、ということを考えている(自己満足という側面はあるだろうが)。
ただ、自分が関心を持っているものごとに無関心な人々に対して、その面白さ・大切さを伝えたい、という思いは、「コミットメント」世代よりも弱いのだろう。

内田樹氏の文章はいつも刺激があり、面白いのだが、今回のは特に考えさせられる文章だった。

そういえば、『14歳の子を持つ親たちへ』ISBN:4106101122、珍しく、新刊が出てすぐに買った。我が子が14歳のうちに買わないと賞味期限切れになると思ったからだ。これも面白かったが、これを読んで思い出したのが、今の若い人たちの中に、「他人の考えていることは分かるはずがない」と思っている人が結構いるらしいこと。

もちろん、いろいろ努力した上で、やはりわかりません、となるのなら、まあよい。わかろうとしない人が多くいたのだ。それは中学校の国語の教科書を一緒に読んでいた時だった。「そうは書いていないだろうから、もうちょっと考えて読んで欲しい」と言った際に、「どうせ書いている人の気持ちは分からない」と来たのだ。そう考えているのは一人ではなかった。

この人たちは、文章を読む際に、自分の感覚にあうものだけを受け入れるのであり、私はこのような読書のことを「あるある読書」と名づけた。文章を読んで「ああ、それってあるある」と喜ぶわけだ*2

そのような読書しかできない人には、国語の教師になってほしくないと思った(国語の教員免許のために一緒に教科書を読んでいた)。もちろん、国語の授業で、読みを狭めてしまうような、行き過ぎと思われる指導も多いだろう。しかし、文章をざざっと読んで、何か感じればそれでよい、というのでは、国語の授業はいらない。丁寧に読んでゆけば、ざざっと読むのとは違う理解につながるのだ、ということを示さねばならないのだ。

話がどんどん逸れてゆくが、現行の国語教育への不満として、文章を素通りして、内容を講ずることが多いことがある。たとえば国語の教科書に、理科的教材や社会科的教材が出てくると、文章には全く目もくれず、その理科的内容・社会科的内容を伝えようとする*3。そのために、道具や図表を持ち出して。もちろん、その道具や図表が、文章を理解するため、あるいは文章の組み立て方を見極めるためであるのなら文句はない。ところが、文章がなくとも内容が理解出来るように使われるのであるから不満なのだ。「まず書いてある事柄を分からせてから、文章に目を向けます。」とおっしゃるかも知れないが、もしそうなら、そういう文章に目を向けた授業をこそ見せて欲しい。研究授業や授業参観というと、イベント的なものばかりを見せられるのだが、そういう地道な授業を見せてもらいたいのだ。

話の逸れついでに書くと、漢字教育のいい加減さも問題だ。完全に参考書業界の餌食になっている。


……と、こう、国語教育界の批判をしているが、やはり昭和30年代生まれの「他責的構文」なのか。

「先生はえらい」ISBN:4480687025けませんね。誤読のことも書かれているらしいし*4

*1:適当な筆記用具があれば、手を下していたところだった。

*2:もちろん、一般的な読書でも自分の分かるところから入ってゆくのだが、「あるある読書」はそれがあまりに皮相なのだ。

*3:一方で教条的教材が出ると道徳との境界が曖昧になる。

*4:「あるある読書」は誤読のうちに入らない、と私は思っているのですが。