出張の友

沖縄である。朝、慌ただしかったので、あまり考えずに転がっている文庫本を一冊、ポケットに入れて出かけた。島尾敏雄日の移ろい (中公文庫)』。


島尾は名瀬にいるのだが、昭和47年の4月から一年間のことが書いてある。私は、47年の8月に名瀬に行っているので、ちょっと驚いた。


当時、私は小学6年生、シマオトシオという作家が図書館長で大島にいる、という話は、祖父か母か叔母あたりから聞いたと思う。しかし、ちょうど私が行った時期のことが記されているとは思いもよらなかった。毎年行っていたわけではないし、昭和47年という年記を見て、その偶然に驚いた次第である。


その年は、夏休みになるとすぐに大島へ行く予定だったのが、台風のせいで遅くなったのを覚えている。『日の移ろい』にも、台風で船が出ないことが書かれている。マヤさんは26日に「はいびすかす」に乗り、伸三さんはあまみ丸で帰ったとあるが、私は何日だったろう。日記を確かめたいところだ。2等で、甲板で寝たのだが、あまみ丸だったような気もする。

2等で船に乗る大変さは、1月ごろの記事に見える。甲板で寝ることになったときには、雨でも降ったらどうなるのだろうと思ったが、外気に当たっていたおかげか、さほど酔わずに済んだのは有難かった。帰りは新しい船であるクイン・コーラルに乗った。寝たのは食堂。固定式のテーブルの下に潜り込むように寝たのだった。新しい白いテーブルの下だが、固くて寝にくかった。船には「臨時定員」というのが設けてあって、夏休みなどには食堂などを廃し、この臨時定員を用いるようだった。

南沙織の歌うクインコーラルの歌も流れていた。

連絡船の「クイン・コーラル」が、その六千トンを超える巨体を岸壁に横づけにすると、埠頭はちょっとビルディングの谷間のような様相になる。船舶の恰好が突如として現出した窓の多い高層建築に見えていた。もし船がそこに横たわっていなければ、断ち切られた空間の向こうに夜の海が風に吹きさらされている闇と直面しなければならない。

6000トンとは大きいものだ、と私も思った。行きに乗った2000トンほどの船と比べると際立っていたものだ。

今、奄美よりも遠い沖縄に、一っ飛びでやってきた。
奄美へも飛行機で行けるのだが、行っていない。空港と名瀬の間も便利になったと聞くのだが。


そういえば、NHK土曜ドラマで、オーミジマという名前で奄美大島を舞台にしている*1。街並みを見ても、思い出せないが、『日の移ろい』の地名を見ると、思い出されるものがある*2
そうか、キミヨちゃんは、私とおない年か。

ことば

p162の「そしらぬげ」という言葉は、辞書に載せてよいか、とも思うが、『日本国語大辞典』は、「しらぬげ」も載せていないようだ。

*1:「していた」のようだ。

*2:伊津部に豚の屠殺場があったとは驚いたが、そういえば、「その匂いが……」という話を聞いたようにも思う。