私が連想したもの

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末弘厳太郎「進歩と変説」*1

我々の小さい体験だけから考えても、我々の心は常にテーゼとアンチテーゼとの闘争で充たされている。そうしてその闘争の波長は、我々がより多く読書し、より多く思索し、またより多く書き、もしくは言う場合に、最も大きくなることを感ずるのである。講義もしくは講演をした経験のある人々は誰しも感ずることと思うが、我々が聴衆にむかって或ることを言った瞬間に、我我の脳裡に――それまで全く思いも及ばなかった――今言ったこととは全く正反対な考えが、突如として浮び出すものである。そうしてそのことは、講義ないし講演の準備が最もよくできている場合に、最も力強く実現するのである。また文筆に従事する人々は、必ずや、或ることを書いた瞬間にその今書いたばかりのことが反対物になって、瞬間後の己と対立するという事実を体験されるに違いないと思う。無論、この動揺対立の程度は、人によっていろいろ違うらしい。所謂遅筆と言われる人は、まだ書かないうちから心の中で激しい自己闘争を行っているに違いない。書いては消し、書いては原稿紙を破りながら、熱烈な心理的闘争をやっているに違いない。そうして、不断の闘争を締切期限のために人為的に打ち切られていやいや原稿を手離すのが、文筆に従事する人々多数の経験であると思う。真面目に思索する人々は、恐らく締切期限がないならば永久に原稿を手離さないだろう。ああも考えこうも考え、ああも書きこうも書きつつ、永久に思索を続けるに違いないと私は考えている。

「真面目に思索する人々は、恐らく締切期限がないならば永久に原稿を手離さないだろう。」

このあと、こう続く。

 しかし同時に私は、同じ理由から、大きく進歩しようと志す学者は、己自らを絶えずテーゼに固定するように努力すべきだと思う。偉大な思索能力を持つ学者は、言わずともまた書かずとも、己の心の中にテーゼを固定せしめつつ、ただちにアンチテーゼを生んで両者の闘争裡にジンテーゼを生むことができるかも知れないけれども、普通の学者にとっては、現在思っていることを言葉なり文章なりに体現して、それを完全なる外物に固定した上で、それをテーゼとしてただちにそれと心中のアンチテーゼとを闘争せしめたほうが、より容易に進歩を遂げ得るのではなかろうか。私にはどうもそう思われてならないのである。

はやく固定しなくてはいけません。

テキスト

http://homepage1.nifty.com/ksk-s/rfk1.html
こちらにありました。

*1:昭和7年7月「改造」14巻7号。冨山房百科文庫版『嘘の功用 上』による。著作権切れなので、引用部分が本文より多くても大丈夫です。