昔話、歌うバイト

大学生の頃、多分1980年か、遅くても1981年、ちょっと変わったバイトをした。合唱団のソプラノの子から誘われたバイトだ。

当時はまだ、学生はあまりカラオケに行かないころではなかったかと記憶する。82年頃になると、若者が行く店にもカラオケが増えてきたのだが、80年頃には、あったとしても曲がおじさん向けのが多かったはずだ。

さて、そのバイトは、カラオケで歌を歌うものである。といっても、人に聞かせるものではなく、カラオケ機の改良のために歌を歌うのだという。そんなバイトがあるものだろうかと思いながら、ソプラノの子とベース二人(うち一人は私)でバイト先に出かけた。昼間である。着いたのはただのマンションで、ごく普通の一室。こんなところでカラオケを歌うのかと思いながら入ると、機器類がおいてあり、たしかにカラオケの開発をしている感じは漂っている。
我々の仕事場は畳の間だった。畳の上に、カラオケ歌詞集*1が置かれていて、その中の曲なら何でもいいから歌ってくれ、というのがバイトであった。
どのような改良かというと、採点機能を付けるのであるという。そんなことが出来るのだろうかと思った。なにせ、カラオケマシンは8トラだと思っている時代である。

ともかくいろんな人に歌ってもらって、採点基準を考えたりするのだろうと、とにかく歌うことにしたのだが、これが歌いにくい。畳の間に座っているというのもそうだが、窓の外は明るく、誰一人、ノッている人のない中で歌うのは難しかった。
現在であれば、カラオケボックスの中で最初に歌い出すきっかけの思い切りが必要だというのに近い。しかもこれが最初の曲だけではなくずっと続く感じなのだ。一人が歌い、もう二人が聞いているのだが、あちらでもう一人の技師らしき人が冷めた目で聞いている。なかなか「歌う」という作業に没入できないのだ。


機械によって得点が付けられているはずだが、その得点は我々には知らされない。ひょっとすると技士らしき人も採点して、それと機械の採点を照らし合わせているかもしれない。


それでも、何曲か歌ううちにようやく歌うことが出来るようになり、歌う楽しさも出て来た。多分デュエット曲も歌ったのではなかったか。先方の要望だったと思うが、機械の採点難しそう、と思いながら。東京ナイトクラブだったかな。自分が何を歌ったのかは忘れたが、ソプラノの子が「北の宿から」を歌ったのは覚えている。「おさけ並べて」を「おけさ並べて」と歌い間違え、三人で笑ってしまったからだ(技師さんは笑ってなかったと思う)。


心配したけれど、ちゃんと現金でバイト代をもらえた。このバイトはその一回きりだった。


この採点機開発はどうなったのだろう。
http://www.karaoke-maniax.com/article/54085005.html
ここを見ると、80年前後に既にカラオケ採点機があったと書いてあります。あの会社の開発が商品化されたのか、あるいは先を越されてしまったのか。どうだったのだろう。

カラオケ飲み屋

82年頃、吉塚駅近くあった「太平記」という飲み屋さん(焼鳥屋さん)にカラオケが置いてあったのを思い出した。ここで、見知らぬ人が歌ったアンルイスの「グッバイマイラブ」に聞き惚れた記憶がある。


「九大前」バス停近くの「ピクニック」というカラオケ中心の店は何時出来たのだったか。若者が行く、カラオケのある店だった。ステージがあり、見知らぬ人の歌も聴くスタイルである。顔覚えの悪い私だが、歌声を聞いて、高校時代の同級生を見いだしたこともあった。

*1:書いて懐かしくなった。