言語感覚


私はこれまで、

人は、よく、「正しくない日本語である」とか、「本来の言い方ではない」とか、「古くて合理的でない日本語である」とか、「権威主義的な日本語である」とか言って指弾するが、これは、自分自身のことばが好きで、それとは異なるものを指摘する際に、自分自身のことばの方に有利になるよう理論武装しているのに過ぎない。

という言い方をしてきたが*、より正確に言うなら、「自分自身のことば」というよりも「自分自身が作り上げてきたことば」「自分自身がよいと思ってきたことば」というべきかもしれない。


「正しくない日本語である」と指弾された側は、「これは合理化を目指す言語の自然な変化である」と言ったり、「正しくない」の拠り所を崩そうと、より古い時代の「正しくない」例を探してきたりする。


「全然」が、〈「本来」(「もともと」)否定を伴うものだった〉というのは確かに迷信なのだが、〈否定を伴わなければ落ち着かない〉という感覚まで迷信扱いされるのはいかがなものかと思う。この感覚は、教育されたことによって無理矢理作り上げられた感覚では決してない。

先日テレビで、

「あの子、タイプ?」
「全然」

というようなのを聞き、「全然タイプではない」と言っていると私は思った。
しかし、どうやら、「完全にタイプ」ということのようであった。
確かに、新しい世代では感覚が変わっていているのであろう。


そういう感覚の持主からは、〈否定を伴わなければ落ち着かない〉という感覚は、信じ難いのだろう。無理矢理矯正している、と考えてしまうのだろう。


で、話は最初に戻るのだが、〈落ち着かない〉という感覚ではなく、〈〜でなければならない〉という知識で無理矢理矯正して使うようになった人も、その矯正した結果こそが正しいものである、と思ってしまうことがあるから、話がややこしい、という話だ。


やや循環論めくが、正しいと思って獲得したものだから、正しい位置に在り続けていてもらわなくては引き合わない、という情である。


で、話が更にややこしくなるが、自分自身のことばと、自分がよしと思っていることばとは、明瞭に線が引けるものでもない。