海舟座談

天璋院、『氷川清話』にも出て来るが、『海舟座談』の方が詳しい。

 天璋院は、仕舞迄、慶喜が嫌いサ。それに、慶喜が、女の方は迚も何も分りやしないと云ったのが、ツーンと直きに奥へ聞こヘて居るからネ。そして、ウソ斗り言って、善いかげんに言ってあるから、少しも信じやしないのサ。
(中略)
 和宮天璋院とは、初は大層、中が悪かった。会ひなさるまではネ。お附のせゐだよ。夫で、あちらでもすれば、こちらでもと云ふやうに、張合ふものだから、入費が掛って、困って仕舞ったのサ。大久保なども、
「奥から潰れる、仕方がない」
と言った。
『困れば、私が這入らうか』
と言ふたが、こンな乱暴者だから、大久保も実は心配して居たと見える。
「いよ/\困る」
と言ふから、
『そンなら、大久保サン、どうせ夫で潰れると思ふなら、同じ事だから、私が一ツやって見よう』
と言ふた。
「夫でも、余り世話しくて気の毒だ」
と言ふから、
『ナニ、女などにさうかゝるものか』
と言って、私が引受けてやったのサ。名代の乱暴者と聞いてるから、どンな事をするかと思ったらしいが、案外のものだから、あとで、天璋院なども、さう言ったよ。夫で、私が言ふたのサ、
『私は、女の尻など叩いて、威張ってる男ぢゃア、ありません』
と言ったよ。


 天璋院のお伴で、所々へ行ったよ。八百善にも二三度。向嶋の柳屋へも二度かネ。吉原にも、芸者屋にも行って、みンな下情を見せたよ。だから、之で所々に芸者屋だの、色々の家を持て居たよ。腹心の家がないと、困らあナ。私の姉と云って、連れてあるいたのだが、女だから、立小便も出来ないから、所々に知って知らぬふりをしてくれる家が無いと困るからノ、その中、段々と自分で考へて、アーコーと直きに自分で改革さしたよ。今では千駄ヶ谷は、角火鉢に銀瓶が掛ってるがネ。夫は、船宿で便所をかりて出ると、其処に火鉢に鉄瓶が掛って、湯が沸てるので、お茶を一ツと言って出したのが、大層うまかって、
「之はいゝものだ」
と言って、直きにさうしたのサ。其次に行って見たら、チャーンと鉄瓶が掛ってるから、
『之は下司のすることです。銀瓶が沢山ありますのですから、これをお使ひなさい』
と言った。
「イヤ、之が善い」
などと言ったよ。


柳屋に行った時だッけ、風呂に入れたら、浴衣の単物を出したが、万事心持が違ふので、直きに又さうしたよ。一体は風呂の湯を別に沸して、羽二重でこすのだから。夫に、着物もベタ/\すると言って、浴衣の方が好いなどと言ふやうになった。シャツを見て、あれは何と云ふものだと聞いて、帰りにニツ三ツ買って帰ったら、直きに夫をしたよ。初めは、変だったが、もう離せないと言ふやうになった。
ワシの家にも二三度来られたが、蝙蝠傘を杖にして来てネ、
「どうも、日傘よりも好い」
と言った。そンな風に、万事自分で改革をした。こッちは、少しも関係しない。
『夫は、余りひどい』
などと言って、賞めて置く許りサ。夫で、ズーッと事が改って来たよ。後には、自分で縫物もされるしネ、
「大分上手になったから、縫って上た」
などと言って、私にも羽織を一枚下すったのを持てるよ。三位は、さう云ふ風にして育てたから、大変に質素だよ。外に出る時でも、双子より外に着せは為なかったのサ。


 アー、和宮は、モ少し上品で、夫で利口なのだ。徳川の方で万事仕やうとしたが、お上でなさるやうになったものだから、こちらから二千両づつ上たよ。夫でも、おかくれの後に見ると、チャンと取って置いて、夫々お附の者に下すったよ。天璋院は、万事、和宮と相談なすったよ。

海舟座談(明治卅一年十一月十日)*1

*1:岩波文庫による。『海舟餘波』(近代デジタルライブラリー)では、ちょっと違う本文。