氷川清話

ついでだから、
http://d.hatena.ne.jp/kuzan/20070922/1190469462
の続き。

 当時人心恟々として、おれは常に一身を死生一髪といふ際に置いて居た。おれの真意が官軍にわからなくつて、官兵がおれの家を取り囲んだこともあつた。また、幕臣中でも慓悍なものは、動もすると、おれを徳川氏を売るものと見做して、おれを殺さうとしたものも一人や二人ではなかった。おれが品川の先鋒総督府と談判して帰りがけにも、薄暮赤羽根橋を通つて居たら 鉄砲丸がおれの鬢を掠すめていつたから、おれは馬を下り、轡をとりて 徐かにそこを過ぎ、四辻から再び馬に乗つて帰つたツケ。
 また歩兵が脱走を企てた時には、おれは屡々馳せて行て、之を鎮撫して居つたが、ある時も今日の九段招魂社のあたりで、説諭を加へて居るうちに、弾丸がおれの提燈を貫き、引続いてまたおれの馬の前に立つて居た一卒を倒したこともあつたヨ。この時には、おれは目前に佐藤継信を見たヨ。
 おれの家には、護衛も壮士も居なかった。護衛や壮士は、実に恃むに足らず、また恃むべきものではないヨ。壮士の代りに二三人の女中を置いて、来客の応接、その他の用を弁じて居たが、これは、どんな乱暴者でも、婦人には手を出すまいと思つたからサ。今もその例に依って、おれ家にはこの通り(傍に侍する婢を顧み)女ばかりを使つて居るヨ。アハ………。
 又當時は、八釜しやが随分諸国からやつて来たヨ。しかし勝に行つても駄目だとおもつたか知らぬが、おれのところへは誰も来ずに、大久保一翁や、山岡鉄舟の處へ皆な押し掛けて行て、幕府の意気地がないことを劇しく論じた様子サ。大久保も山岡も頗る閉口した様だったから、そんな奴に取り合ふな、打ちやつて置け、といつてやつたら、後で何だかぶつ/\いつたさうだ。
 自分の手柄を陳べるやうで可笑しいが、おれが政権を奉還して、江戸城を引払ふやうに主張したのは、所謂国家王義から割り出したものサ。三百年来の根底があるからといつたところが、時勢が許さなかったら何うなるものか。且つ又都府といふものは、天下の共有物であつて、決して一個人の私有物ではない。江戸城引払ひの事については、おれにこの論拠があるものだから、誰が何といつたつて少しも構はなかったのサ。各藩の佐幕論者も、初めは一向時勢も何も考へずに、無暗に騒ぎまはつたが、後には追々おれの精神を呑み込んで、おれに同意を表するものも出来、また江戸城引渡しに骨を折るものをも現はれて来たヨ。併し此の佐幕論者とても、その精神は実に犯すべからざる武士道から出たのであるから、申し分もない立派のものサ。何でも時勢を洞察して、機先を制することも必要だが、それよりも、人は精神が第一だヨ。
 江戸城受渡しの時、官軍の方からは、予想通り西郷が来るといふものだから、おれは安心して寝て居たよ。さうするとみなの者は、この国事多難の際に、勝の気楽には困るといつて、呟いて居た様子だつたが、なに対手が西郷だから、無茶な事をする気遣ひはないと思つて、談判の時にも、おれは慾は言はなかった。たゞ幕臣が餓ゑるのも気の毒だから、それだけは、頼むぜといつたばかりだつた。それに西郷は、七十万石呉れると向ふから云つたよ。
 先年李鴻章が来る時にも、おれは前からいつたヨ。あれなら、談はどうにも出来る人物だから、こちらからは、餘り進んで慾をいはないがよい。出す時には、見切がはやく付く男だから、その積りで談判しろ。と政府の人にも忠告して置いたヨ。それを、なに老爺がまた古風な考を持ち出す。外交の掛引は、そんな人好沙汰では行けないといはぬばかりに聞いて居たが、果して李に一層上を超されたツケ。幾ら支那人との談判だからといつたつて、対手の人物を見てやらないと、すべてこの通りさ。
 維新の頃には、妻子までもおれに不平だつたヨ。広い天下におれに賛成するものは一人もなかったけれども(山岡や一翁には、後から少し分つた様であつたが)おれは常に世の中には道といふものがあると思つて、楽しんで居た。また一事を断行して居る中途で、おれが死んだら、たれかおれに代るものがあるかといふことも、随分心配ではあつたけれど、そんな事は一切構はず、おれはたゞ行ふべきことを行はうと大決心をして、自分で自分を殺すやうな事さへなければ、それでよいと確信して居たのサ。
 おれなどは、生来人がわるいから、ちやんと世間の相場を踏んで居るヨ。上つた相場も、いつか下る時があるし、下つた相場も、いつかは上る時があるものサ。その上り下りの時間も、長くて十年はかゝらないヨ。それだから、自分の相場が下落したと見たら、じつと屈んで居れば、暫くすると、また上つて来るものだ。大奸物大逆人の勝麟太郎も、今では伯爵勝安芳様だからノー。併し、今はこの通り威張つて居ても、又、暫くすると耄六してしまつて、唾の一つもはきかけて呉れる人もないやうになるだらうヨ。世間の相場は、まあこんなものサ。その上り下り十年間の辛棒が出来る人は、即ち大豪傑だ。おれなども現にその一人だヨ。
 おれはずるい奴だらう。横着だらう。併しさう急いでも仕方がないから、寝ころんで待つが第一サ。西洋人などの辛棒強くて気長いには感心するヨ。

 今の世に西郷南洲が生きて居たら、談し相手もあるに、
   南洲の後家と話すや夢のあと
 今の人は、この句の意を知るまいヨ。

 全体大きな人物といふものは、そんなに早く現れるものではないヨ。通例は百年の後だ。今一層大きい人物になると、二百年か三百年の後だ。それも現はれるといつた所で、今のやうに自叙伝の力や、何かによって現はれるのではない。二三百年も経つと、ちやうど、その位大きい人物が、再び出て來るぢや。其奴が後先の事を考へて見て居るうちに、二三百年も前に、丁度自分の意見と同じ意見を持つて居た人を見出すぢや。そこで其奴が驚いて、成る程えらい人間が居たな。二三百年も前に、今、自分が抱いて居る意見と、同じ意見を抱いて居たな、これは感心な人物だと、騒ぎ出す様になって、それで世に知れて来るのだヨ。知己を千載の下に待つといふのは、此の事サ。
 今の人間はどうだ、そんな奴は、一人も居るまいがノ。今の事は今知れて、今の人に賞められなくては、承知しないといふ尻の孔の小さい奴ばかりだらう。大勲位とか、何爵とかいふ肩書を貰つて、俗物からわい/\騒ぎ立られるのを以て、自分には日本一の英雄豪傑だと思つて居るではないか。君等はマアよく考へて見たまへ、維新以後、未だ三十年を経たばかりではないか。僅か三十年の間に、人物が現はれうといつても、現れやうがないサ。今日自分から騒ぎ出して、それがため、いくぶんか俗物共に知られて居る奴らは、さうサ、今から三十年も経たないうちに、すぐ忘られてしまふだらうヨ。おれはちかいうちに死ぬるけれども、君らはまだ若いから、三十年や五十年は、生きて居るだらうが、おれのいつた事が、嘘になるか、真になるか、試して見るとよい。
 維新の時でもさうだツたヨ。水戸の烈公は、えらいといふので、非常の評判だつたヨ。実にその頃は、公の片言隻語も、取つて以て則とする位の勢ひサ。しかるに、今はどうだ、日本国中で、烈公を知つて居るものが、何人あるか。成程、水戸の近辺へ行つたら、匹夫匹婦もみなその名を記憶して居るだらうが、そのほかの土地では、誰も知らないヨ。その通りだ。天下の安危に関する仕事をやつた人でなくては、そんなに後世に知らるゝものではない。ちよつと芝居をやつた位では、天下に名は挙らないサ。
 おれは、今迄に天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠西郷南洲とだ。横井は、西洋の事も別に沢山は知らず、おれが教へてやつた迄だが、その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子を掛けても、及ばぬと思つた事が屡あつたヨ。おれは窃に思つたのサ。横井は、自分に仕事をする人ではないけれど、もし横井の言を用ゆる人が世の中にあつたら、それこそ由々しき大事だと思つたのサ。
 その後、西郷と面会したら、その意見や議論は、寧ろおれの方が優る程だツたけれども、所謂天下の大事を負担するものは、果して西郷ではあるまいかと、また窃に恐れたヨ。
 そこで、おれは幕府の閣老に向つて、天下にこの二人があるから、その行末に注意なされと進言しておいたところが、その後、閣老はおれに、その方の眼鏡も大分間違つた、横井は何かの申分で蟄居を申付けられ、また西郷は、漸く御用人の職であつて、家老などいふ重き身分でないから、とても何事も出来まいといつた。けれどもおれはなほ、横井の思想を、西郷の手で行はれたら、最早それ迄だと心配して居たに、果して西郷は出て来たワイ。

 おれが初めて西郷に会つたのは、兵庫開港延期の談判委員を仰せ付けられるために、おれが召されて京都に入る途中に、大坂の旅館であつた。その時、西郷は御留守居格だつたが、轡の紋の付いた黒縮緬の羽織を着て、中々立派な風采だつたヨ。
 西郷は、兵庫開港延期のことを、よほど重大の問題だと思つて、ずいぶん心配して居た様だつたが、しきりにおれにその処置法を聞かせよといふワイ。そこで、おれがいふには、まだ確には知れぬが、この度の御召しは、多分談判委員を仰せ付けられるためだらう。併し小生は、別段この談判を難件とは思はない。小生がもし談判委員となつたら、まづ外国の全権に、君らは、山城なる  天皇を知つて居るかと尋ねる。すると彼らは、必ず知つて居ると答へるだらう。そこで、しからば、その  天皇の叡慮を安んじ奉るために、しばらく延期してくれと頼むサ。そして一方に於ては、加州、備州、薩摩、肥後その他の大名を集め、その意見を採つて  陛下に奏聞し、更に国論を決するばかりサ』と、斯ういつた。それから彼の問ふに任せて、おれは幕府今日の事情を一切談じて聞かせた。彼がいふには、とかく幕府は薩摩を悪んで、漫りに猜疑の眼をもつて、禍心を包蔵するやうに思ふには困るといふから、おれは、それは幕府のつまらない小役人どもの事だ。幕府にも人物があらうから、そんな事は打ちやツて措きたまへ。かやうの事に懸念したり、憤激したりするのは、貴藩のために決してよくないといツたら、彼も承知したといツたツケ。
 坂本龍馬が、曾ておれに、先生屡々西郷の人物を賞せられるから、拙者も行つて会ツて来るにより添書をくれといツたから、早速書いてやつたが、その後、坂本が薩摩からかへつて来て言ふには、成程西郷といふ奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だらうといつたが、坂本も中々鑑識のある奴だヨ。
西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。おれの一言を信じて、たつた一人で、江戸城に乗込む。おれだつて事に処して、多少の権謀を用ゐないこともないが、たゞこの西郷の至誠は、おれをして相欺くに忍びざらしめた。この時に際して、小籌浅略を事とするのは却てこの人の爲めに、腹を見すかされるばかりだと思つて、おれも至誠をもつてこれに応じたから、江戸城受渡しも、あの通り立談の間に済んだのサ。
 西郷は、今云ふ通り実に漠然たる男だつたが、大久保は、これに反して実に載然として居たヨ。官軍が江戸城にはいつてから、市中の取締りが甚だ面倒になって来た。これは幕府は倒れたが、新政が未だ布かれないから、恰度無政府の姿になつたのサ。しかるに大量なる西郷は、意外にも、実に意外にも、この難局をおれの肩に投げ掛けておいて、行つてしまつた。どうか宜しくお頼み申します、後の処置は、勝さんが何とかなさるだらうといつて、江戸を去つてしまつた。この漠然たる「だらう」にはおれも閉口した、実に閉口したヨ。これが若し大久保なら、これはかく、あれはかく、とそれ/\談判しておくだらうに、さりとはあまり漠然ではないか。しかし考へて見ると、西郷と大久保との優劣は、こゝにあるのだヨ。西郷の天分が極めて高い所以は、実にこゝにあるのだヨ。
 西郷は、どうも人にわからないところがあつたヨ。大きな人間ほどそんなもので……小さい奴なら、どんなにしたつてすぐ腹の底まで見えてしまふが、大きい奴になるとさうでないノー。例の豚姫の話があるだらう。豚姫といふのは京都の祇園で名高い……もつとも初めから名高かつたではない、西郷と関係が出来てから名高くなつたのだが……豚のごとく肥えて居たから、豚姫と称せられた茶屋の仲居だ。この仲居が、酷く西郷にほれて、西郷もまたこの仲居を愛して居たのヨ。しかし今の奴らが、茶屋女とくつ付くのとはわけが違つて居るヨ。どうもいふにいはれぬよい所があつたのだ。これはもとより一の私事に過ぎないけれど、大体がまづこんな風に常人と違つて、よほど大きく出来て居たのサ。
 西郷なんぞは、どの位ふとつ腹の人だつたかわからないよ。手紙一本で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそ/\談判にやつてくるとは、なか/\今の人では出来ない事だ。
 あの時の談判は、実に骨だつたヨ。官軍に西郷が居なければ、談はとても纏まらなかっただらうヨ。その時分の形勢といへば、品川からは西郷などが来る、板橋からは伊知地などが来る。また江戸の市中では、今にも官軍が乗込むといつて大騒ぎサ。しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、たゞ西郷一人を眼においた。
 そこで、今談した通り、ごく短い手紙を一通やつて、双方何処にか出会ひたる上、談判致したいとの旨を申送り、また、その場所は、すなはち田町の薩摩の別邸がよからうと、此方から選定してやつた。すると官軍からも早速承知したと返事をよこして、いよ/\何日の何時に薩摩屋敷で談判を開くことになつた。
 当日おれは、羽織袴で馬に騎つて、従者を一人つれたばかりで、薩摩屋敷へ出掛けた。まづ一室へ案内せられて、しばらく待つて居ると、西郷は庭の方から、古洋服に薩摩風の引つ切り下駄をはいて、例の熊次郎といふ忠僕を従へ、平気な顔で出て来て、これは実に遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷に通つた。その様子は、少しも一大事を前に控へたものとは思はれなかった。
 さて、いよ/\談判になると、西郷は、おれのいふ事を一々信用してくれ、その間一点の疑念も挾まなかった。「いろ/\むつかしい議論もありませうが、私が一身にかけて御引受けします」西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であつたら、いや貴様のいふ事は、自家撞着だとか、言行不一致だとか、沢山の兇徒があの通り処々に屯集して居るのに、恭順の実はどこにあるかとか、いろ/\喧しく責め立てるに違ひない。万一さうなると、談判は忽ち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいはない。その大局を達観して、しかも果断に富んで居たには、おれも感心した。
 この時の談判がまだ始まらない前から、桐野などいふ豪傑連中が、大勢で次の間へ来て、ひそかに様子を覗つて居る。薩摩屋敷の近傍へは、官軍の兵隊がひし/\と詰めかけて居る。その有様は実に殺気陰々として、物凄い程だつた。しかるに西郷は泰然として、あたりの光景も眼に入らないもののやうに、談判を仕終へてから、おれを門の外まで見送つた。おれが門を出ると近傍の街々に屯集して居た兵隊は、どつと一時に押し寄せて来たが、おれが西郷に送られて立つて居るのを見て、一同恭しく捧銃の敬礼を行つた。おれは自分の胸を指して兵隊に向ひ、いづれ今明日中には何とか決着致すべし、決定次第にて、或は足下らの銃先にかゝつて死ぬることもあらうから、よく/\この胸を見覚えておかれよ、と言ひ捨てゝ、西郷に暇乞ひをして帰つた。
 この時、おれが殊に感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失はず、談判の時にも、始終座を正して手を膝の上に載せ、少しも戦勝の威光でもつて、敗軍の将を軽蔑するといふやうな風が見えなかった事だ。

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