大奥

『旧事諮問録』isbn:4003343816

◎問 公方様と和宮様との間はどうでした。
◎答 御仲は悪いことはございませんでしたが、御婚礼のときに鏡を懐にしておられましたのを、懐剣を持って御出になったなぞと申す取沙汰をいたしましたが、そんなことはございませぬ。誠に畏《おそ》れ多いことでございますが、その時分は、西京の方をよく思いませんでしたから、口さがなき部屋方などが悪口を申しましたのが響きまして、天璋院様との間がよくございませんで、天璋院様は二の丸に引移りになりましたから、嫁が来て姑を出すのは奇体[希代]だなぞと申しましたが、一時の悪口でございます。それに、内親王の位でいらせられますゆえ、こちらで御待受けの御道具も、ちゃんとできておりましたに、それを召さずにどこまでも内親王の位で来ていらせられますから、あちらから御持ちになって、こちらのを御用いがないから、一時折合が悪かったのでございます。
◎問 和宮様の御髪はどうでした。
◎答 お童《わらわ》でございました。押下げという御様子で、昼の総触のときは、御髪が下下地《さげしたじ》というような、下から巻いたような恰好《かつこう》でした。御|簪《かんざし》と笄《こうがい》でございました。

明治二十四年四月二十三日
旧幕中臈 箕浦はな子
同 御次 佐々鎮子

三田村鳶魚

これに対して、

 これは筆記が悪いのか、高級女中の措辞としては許し難いものである。
 天璋院殿が二の丸へ移られたのは、お間柄がおよろしくないためとは思われない。前代の御台所が御別居なさる例があるのだ。殊に皇妹降嫁という格別な次第であるから、御遠慮なさるわけもあろう。

と書いている(「御殿女中の研究」著作集第三巻所収)*1

 我等はかつて大岡ませ子刀自*2から聞いたには、「はな子は天璋院様の御小姓でした。尾州の医者の娘で、父が二の丸にいたというのは嘘です。また鎮子というのは歌の名(作名)で、奥ではいしといっていました。後に米屋の女房になり、手習師匠になり、諸礼の先生にもなりました。別段に素養のある人でもなかったのに、器用にまかせていろいろなことをしました」とのことであった。

とも。

ついでに

◎問 天璋院様は、御酒が御|嗜《す》きでしたか。
◎答 さようでございます。しかし御寝前でなければ上がりませぬ。私どもは扱います役でこざいましたが、時々御|相伴《しようばん》もいたしまして頂きましたが、御酌でたくさん頂いて酩酊いたしたこともございました。

についても、鳶魚は、

天璋院殿のお相伴で酔ッぱらったというのも、決してないことだ。お相伴はないと聞いている。

としている。

*1:薩摩に戻る云々も見える。

 
薩州家より申上候書付
一此度皇妹御縁組之儀、御内々被2仰付1候、付ては、
天璋院様には御姑に被v為v当、且於2拙者1も乍v恐
皇親之末を穢し候にも相当り、重々恐入奉v存候、
依v之天璋院様御事、其儘に被v為v在候ては、奉v対2
朝廷1於2拙者1恐怖至極に御坐候、何卒御同人様御
里方え永之御滞留被v為v在候様仕度奉v存候。
 右之趣一応御内慮相伺度候段申達候、以上。
  申十二月          松平修理大夫
 この申年は庚申なのだから万延元年である。すなわち和宮様御東下の前年だ。薩摩からこういう内伺《ないうかがい》が出ている。天璋院殿は島津斉彬の女であるが、近衛家の養女として入輿されたのだから、お里方へ永の御滞留というと、お里方は近衛家なのか、島津家なのか知れない。この内伺が島津から出ているのでみれば、名義上のお里方でなく、実際のお里方の島津家がお引取申そうという意味らしい。我等はこの内伺書を「公秘録」で見て、勿論島津家が独断で提出するわけのものじゃないのだから、幕府で何分の内議があって、こういう運びにもなったのであろうと思った。しかしその内議は沙汰止みになったのだろう。
と。

*2:御年寄・滝山の姪。