『博多っ子純情』

「早稲田古本村通信」第74号の荻原魚雷「男のまんが道」で、長谷川法世博多っ子純情』が取り上げられている。

私は漫画をあまり買わない。それは普通の本に比べて割高な気がするからだ。買ってもすぐに読み終わってしまう。つまり同じ値段で楽しめる時間は活字の本の方が長く、同じ時間かけて読んだ量は漫画の方が多くなりその結果場所ふさぎになる。

この『博多っ子純情』も、ずっと読まずに来た。しかし、私が福岡出身であるということで、知人が読んでみたらと貸してくれたのだ。同郷と言うだけではない。まさに私の通っていた高校が舞台である。そのこと自体は知っていた。連載されていた時代に、私の高校時代も含まれる。多分断片的に読んだこともあるだろう。

 知人が貸してくれたのは5年ほど前だ。つまり高校時代から20年ほど経ってから読んだことになる。そのことにより、まず懐かしさがあった。「石堂高校」の校舎であるとか、周囲の景色であるとかが、まさに私の母校のそれと重なり、思い出を呼び起こす。

 最初は、そのような思い出を楽しむものとして読んでいたのだが、主人公が上京してからも話は面白い。まさに、主人公が大人になって行くビルトゥングス・ロマンであるわけだ。

長谷川法世氏は、まさかこれほど長い連載になるとは思っていなかったとのことである。どのように終わらせるかも考えていなかったはずである。しかし、最後はきちんと終わる。よい読後感である。

私は、場所ふさぎだけれど、ちゃんと『博多っ子純情』の双葉社版を購入することにした。ブックオフでバラで買ったので一部揃っていない巻があるけれど。

また、これは、ついでのことになるが、博多弁資料としても面白いものだ。明らかな博多弁には注が付くが、時には、非九州弁話者にはこのニュアンスは分かりにくいのではないか、と心配するものもある。例えば、郷六平が年長の人に、ある事情を説明している。それを聞いた年長の人は「そうね」と答える。
この「そうね」は、「そうですね」「そうだよね」の意味ではない。「そうか」「そうなのか」といった意味である。文脈から分かってくれそうにも思うが、分かってくれないかも知れない、とも思う。


「早稲田古本村通信」はwebでの公開はしていないんですね。。(その後公開)