門司の関

文字の關まだ越えやらぬ旅人は道の奧をばいかで知るべき
これは、『印刷史』の序にも引かれる狩谷棭斎の歌だが*1、この歌は、小学をやらねば大学には至らぬ*2ということを含ませて、門司の関を越えないと〈みちのく〉へは行けない、とも読めるものになっている。国語学をやっている九州人の私は、この歌を見たときにすっかり気に入ってしまった*3
九州を出て、本州に来るときの送別会でもこの歌のことを話した覚えがある。


門司というと、レトロ云々であるが、私が門司のまちで思い出すのが、匂い。あれはなんというのだろう、魚粉のような匂いというか。

大学生の頃に、久しぶりに門司へ行き(佐藤書店へ行くためである)、あの匂いをかいだときは、懐かしく感じたものだ。幼稚園のころに住んでいて、多分、そのあとも行ったことはあるはずだが、その匂いのことは忘れていた。でも、電車を降りたときに懐かしく思ったのだ。今、その匂いはないだろうな。

*1:棭[木夜]が「掖」[才夜]となっている。よくあることだが。

*2:訓詁の学なしに哲学的学問は出来ない、というようなこと。

*3:エキ斎はむしろ、みちのくに縁のある人なのだが