同級生
『文藝春秋』の「同級生交歓」を見る度に思っていたのは、呼ばれないものの悲しみである。「同級生交歓」には、いわゆる有名人でなく、何とか会社何々長、とかいう人物も登場している。サラリーマンがよく買うと言われている『文藝春秋』であり、ふと見た「同級生交歓」に、かつての同級生が顔を並べている写真を見、「どうせ私には声はかからないのだ」と思う人もいるだろう、と思ったのだ。
しかし、想像力の乏しい私は、死去による不参加、ということに思い至っていなかった。
高校の同級生が、タクシーに乗っていて飲酒運転の車に追突され、亡くなったとの報が届いた。
『同級生交歓』という文字をweb上でよく見かける。なんともタイミングの悪いことだ*1。
トンネル内で追突され側壁にぶつかり意識を失うまでの間、家族を残して死んでしまうのではないかという痛恨の思いが彼の心を揺さぶったことだろう。
彼の奥さんは、たまたま私の大学時代の知人で、そのwebページも知っている。そのwebページに書かれてあったことを思い出すと、今、彼が亡くなってしまったことが、どんなに大変なことであるのかが思われて、強い悲しみを覚え、飲酒運転者への怒りを感じる。
しかし、それでも、安らかにお眠り下さい、と冥福を祈らねばならず、残されたご家族の、今後の幸福を祈念することに致します。
通夜、告別式には行けませんが、これが私の哀悼の思いです。
新刊の『同級生交歓』と関連づけて書くなんてイヤな奴だ、冷たい奴だ、とお感じになる方もいらっしゃるかも知れません。だとすれば申し訳ありません。