既視感

神西清編『新文学講座 第三巻 技術編』新潮社 昭和23.12.30
に、岩田豊雄「会話について」という文章がある。言わずと知れた獅子文六だが、そこに、

 例へば、落語家が新作落語といふものをやって、会社員なぞを扱ふ。
「オウ、花山君、ご健康いかがですか」
 そんな言葉を会社員に使はせる。(中略)あんな語調で、あんな君づけの仕方で、親しい同僚に話しかける会社員は、日本に一人もゐない。

という部分があるのだが、これとよく似たものを最近読んだ記憶がある。最近読んだと言っても最近書かれた文章ではない。「新作落語・会社員・そんな人はいない」というあたりが共通するものだ。

なんだったか。

百合若

安藤鶴夫『寄席―落語からサーカスまで―』*1の中の「落語の喋りことば」*2でした。ちょっとニュアンスが違うけれど。

 たとえば新作落語を高座に取り上げている落語家は、流行語はすぐおなまに用いる、それが新しい落語だと信じているからである。
 しかし、その流行語をどういう風に、どんな場所に入れるかということについては、なにも考えてない。
 つまり、サラリー・マンならサラリー・マンらしい表現をということにかけては、全く無知なのである。
(中略)
 だから新作落語というものに出てくるサラリー・マンなどの言葉くらい不思議な言葉はない。
(中略)
こんなサラリー・マンの、まず、いるわけがあるまい。
(旺文社文庫 p43-33)

親本は昭和三十二年刊らしいが*3、この文章自体はもう少し前のものだろう。

*1:ASIN:4010613157

*2:『落語鑑賞』の文字化についても書いてある。

*3:ASIN:B000JAW2EI