年賀状

斷腸亭日乘 昭和六年

・正月四日、晴れて暖なり、午後神樂阪の鶴福に徃き園香を招ぎ夕餉を食して歸る、燈下新年の賀状を閲す、文士画工の年賀を機會となし自家の抱負をれいれいしく廣告するもの尠からず、實に厭ふべきものなり、醫者辯護士等の廣告がはりに年賀状を出すは職業柄さして厭ふべきことにもあらず、藝術家の自家吹聽に至りては倨傲らしくも見え、またさほどまでにして名を賣らずともと淺間しくも見ゆるなり、滑稽なるは病中妻に代筆させましたと書き、或は自家の肖像を印刷せしものなり、されどこれ等のことも今は一般の習慣となりたればこれを笑ふ吾身こそ却て人より笑はるゝ事なるべけれ、茲に自家吹聽の年賀状の中最甚しきものを擧ぐれば、京都小山下總町南江二郎の葉書は雜誌人形芝居の廣告にして自家の研究をいかにもれい/\しく勿體をつけたるものなり、画家津田青楓の端書には七年ぶりで東京に舞戻つてまゐりました、私は矢張動いてゐる東京が性に合ひます來るべき時代に役立つべき青年の指導と私自身の洋畫研究とを專念する考です、過去は過去として茲に新しい第一歩を踏み出さうと考へます云々とあり、俗氣芬々人をして嘔吐を催さしむ、江南文三なるものは自家の寫眞を印刷し、あまりても憤ろしき世のさまはこれなるつらを見ぐるしくしつ、一九三一年元旦前後と書きたる印刷葉書を送り來れり、元旦前後とは何の意なるや、元旦前は舊臘ならずや、くだらぬ事をわけあり氣に仔細らしく理窟ツぼく言ふは今の人の口癖なり、自家吹聽もよし、廣告もよし、大風呂敷をひろげるもよし、今少しく垢抜けて茶氣を帶び諧謔の妙味を感ぜしむれば、見るもの其文才に敬服して亦他を思ふの遑なかるべし、詩人詩佛枕山等の新年口號の如き、蜀山人が年々元旦の狂歌の如き、毫も人をして不快の思をなさしめず、文辭は洗練が第一なり、形式の字句にあらず感情思想の洗練なり、是多年切磋琢磨の餘自ら得來るものなり、


若月紫蘭

 元日は千里同風四海平等、去年の鬼が礼に来ることはまこと嘘にはあらで、互に親戚知己朋友の家を訪れ、『あけましてお目出度う』といっては名刺を置いてあるく。この風は随分古くより行なわれたようで、『一話一言』という書に、支那に於ても宋の末頃から年始の賀礼などに名札をもって僕に配らせて歩いたというようなことが書いてある。
 けれども近来に至りて、年賀の廻礼を受ける家に於ては、一々来客に対して挨拶に出るのが面倒だというので、玄関口に屏風など立て廻らして名刺受を置いて、一向に顔を出さぬということが流行するに至り、賀客の方でもそれでは郵便配達と変りはないというので、年始の賀詞を述べて歩くという代りに、葉書を以て賀詞を送るものが漸く多くなって来た。
 これと同時に一方に於ては、『旅行中につき歳末年首の礼を欠く』などという新聞広告を出して置いて、室内旅行や炬燵の籠城をするもの甚だ多く、いわゆる年賀廻礼ということは年と共に虚礼の感が加わるようになって来た。けれども互に遠隔の地にありて、平生余り文通もせざる知己朋友の間に於ては、年賀状を遣り取りするということが盛んに行なわるると見えて、年賀郵便物の数は年々増加の傾向あり、郵便局に於ては十二月の十五日から特別扱いの法を設けて、年賀郵便物の為に他の郵便事務の渋滞を来さざらんことを努めているのである。試みに昨年*1の数を見ると、十二月十五日より三十一日までの市内二十五局に於ける年賀状特別取扱郵便物の引受数は九百五十七万七千五百八十通にて、新年三ヵ日間市内に配達された年賀郵便物は一千三百七十三万三千八百四十五通であるという。
 尚年賀の代りに名刺交換会という会合を催したり、坊主礼といって、四日の日には一般に僧侶の回礼が行なわれ、普通の人はなるべく回礼を避けていることは広く行なわれているようである。
 それから普通の人々の問に於ても、年礼と同時に、その家の子供にお年玉といって手土産を贈ることが行なわれているが、最も盛んに行なわるるのは、平生出入りの商人が年礼のついでに、得意先に配って歩くお年玉であろう。そのお年玉の種類はもとより一定しているのではないが、多くは自分の商売品中のものか、或はそれに関係の品で、ないしは手拭、略暦、盃なんどが最も普通のものである。

http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32


森銑三『明治東京逸聞史』に引く、江見水蔭「ポスト物語」も見たいが未見。


http://kokugosi.g.hatena.ne.jp/keyword/%E5%B9%B4%E8%B3%80%E7%8A%B6

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