和本リテラシーと電子化と翻刻

池澤夏樹編『本は、これから』岩波新書
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1011/sin_k557.html
に収められた中野三敏先生の文章を読んだ。



和本リテラシーを高めようと言う話だから知っている話だと思って安心して読んでいたが、驚かされた。


iPadにも触れ*1、今後、この方向に行くのは間違いない、と見越したうえで、書いていらっしゃるのだ。
しかし、写本と刊本が長く共存しているように、木版本と活字本が長く共存しているように、アナログ本とデジタル本も長く共存してほしい、という。


また、著作権切れしたものはどんどんデジタル化したらよいという。しかし、図書館等で、その原本の姿にもすぐ触れうるようにして置くべし、という。まったく、もっともである。いや、私は紛れもなく、中野先生の教えを受けた人間である、と再認識した。


さて、活字本は、どんどんデジタル化すればよいが、和本はどうか。デジタル化しても誰も読まないのではないか。


そう、この点は私もそう思っていた。「こんなのを電子化するなんて金や時間の無駄遣い、こんなのをネット上に置いておくなんてデジタルスペースの無駄遣いだ」と言われなければよいが、と。


ところが中野先生は違っていた。ここに「和本リテラシー」が出てくるわけだ。みんなで読めるようになればよい、と。


恐れ入りました。敵いません。


確かに、みなが、本の少しの和本リテラシーを持てば、デジタル化された木版本や写本は宝の山となる。


デジタル化時代、画像によるデジタル化時代こそ、木版本や写本にふさわしい。電子テキストと活字に親和性があるように。

とはいえ

 みなが少しの和本リテラシーを獲得したとしても、読むことが困難な写本等は存在している。これらを翻刻することは、すぐれて知的な行為であり、著作権の発生する行為であると私は思う。翻訳と同様にである。


翻刻は単に著者の意図を再現するだけだから、著作行為ではない、という意見があるが、私の考えはそうではない。著者の意図を再現するのではなく、著者の意図と現代の表記とのインターフェースを探るのが翻刻という行為である。翻訳と近い行為である。


もちろん、単純に置き換えるだけで翻刻一丁上がり、というようなものもある。どの程度の知的な行為であるのかは、当該底本の翻刻をやってみないことには判断できない、というのが私の考えである。

*1:実際に触ってみた、と。