中国

8月1日(星期六)

 朝から、自転車で南方の長安県(韋曲)を目指す。途中から工事中なのか、ものすごく道が悪くなる。自動車は迂回しているようだ。三十分ばかりで到着。そのまま南下すると新華書店が有り、古めいた本も売っている。何冊か選んで30元ぐらいかな、と帳場に持って行くと22元ぐらいになった。ところが、そこから計算は続き、5割引をしたのだ。これはよかった。カウンターの横に平積みになっていた『西遊記』の影印本も買うが、これは一割引程度であった。
 更に南下して杜甫の廟を探すが、見当らず引き返す。

8月2日(星期日)

 小雁塔に行く。公共汽車、南稍門まで一人3角。入場料1元(外人3.5元)。暑いので塔には登らず。清代かに長安八景というのがあって、「雁塔晨鐘」というのはここらしい。鐘楼の鐘は金代の物だとある。南門になっている山門(係員は居ない)から出てみるが、細い路地で、長安路には抜けにくそうなので、引き返す。朱雀路には行けそうだったが。

8月4日(星期二)

 夏樹静子『目撃』読了。

8月5日(星期三)

 西安中国書法芸術博物館に行く。城壁にあるのだ。名乗るほどの博物館ではないと思った。

8月6日(星期四)

 『簡明古漢語知識辞典』を買う。夜、停電。

8月7日(星期五)

 9時ごろになってようやく停電が直る。水だけでなく、お湯まで出なくなった所だった。陳凱歌『私の紅衛兵時代』読了。訳が悪いのか原文の所為なのかとても読みにくい。

8月9日(星期日)

 旅行の準備である。
 深夜、マラソンが有るのでつい見てしまう。日本人が先頭集団3人のなかに入っているのである。やがて先頭は日本人と韓国人の2人となり興奮してみている。日本人は優勝争いだけでなく3位争いもしているので1位と3位を日本人が占めるという事態も考えられ、寝る気になれない。最後まで見ると結局2位と4位であった。

8月10日(星期一)

敦煌へ。
 11:00前にワゴン車で出発。11:50ごろ咸陽の空港に到着。
13:40発2212便は1時間前から搭乗手続きを開始。それまで空港使用料を払ったりする。娘も1人前要求され、3人で45元払う。しかもチケットにFECと書いてあるのを指摘され、RMBでは受け取って貰えない。搭乗手続きを済ませ、中に入る。敦煌行の飛行機を待っているのは日本人ばかり。
 出発時間の13:40になってもまだ人がぼつぼつと乗り込んでくる。突然8Bに座っていた男が怒り出す。7Cに座るはずのガイドらしき人にむかってである。「何してんだ。みんな迷惑してんだよ。ガイドが悪いんだ」。しかしこのガイドさんは遅れている団体に付いているのではないのだ。そのガイドが「あの団体は早くから空港に入っていたはずですがねえ」と自分の支配下ではないことを仄めかすと、男はちょっと宛が外れたようだが、まだぶつぶつその人に文句を言っている。連れの女性が宥めているようである。文句男の横に居た女性が読んでいる日本の新聞に「松本清張死去」と書いてあり、驚く。
 飛行機は13:50ごろ出発して、約3時間、16:40ごろ敦煌空港に着陸した。やや曇ぎみである。飛行機を下りてビルに入るが荷物を受け取るところが無い。探していると、飛行機の下に娘のベビーカーらしきものが放り出してある。横に荷物も有って、我々の荷物である。ゴーゴーいっている翼の下に行って荷物を取る。さて、出迎えの人は居ないかと探すがそれらしい人は見当らない。ビルの外に出ても居ない様子である。今夜宿泊の筈の太陽能賓館に行ってみようかとも考えるがタクシーの姿も無い。途方に暮れていると、ようやく「日本からの旅行の方ですか」と声を掛けてきた。太陽能旅行社の女性である。4人で乗るにはなかなか大きなマイクロバスが来ていた。「敦煌市人民政府招待所」とある。空港は町の東の外れにあるようで、莫高窟への路を右に見たりして街へ向かう。用水路を渡るが茶色い水が勢いよく流れている。
 太陽能賓館は満員なので今日からの泊りは、敦煌で一番新しい交通賓館であるという。敦煌市(1988年に県からから市になったらしい)の中心部に来て、西大街を走りホテルの前に止る。しかし「金山賓館」とあり、妙に思っているとフロントから李さんが戻ってきた。ここではない。更に西へ。水無し川の橋を渡りビルの工事現場の前に止る。門が閉っていて、しばらく門衛の人と話しているから、ホテルの場所を聞いているのかと思ったら、門が開いてバスはその中に入って行く。ここが「一番新しい」ホテルだったのだ。ホテル名の表示も無いし、フロントではシャンデリアの取り付け工事を行っている。階段も工事中である。これでもちゃんと営業しているようだから、敦煌の夏はホテル不足なのだろう。食事は太陽能賓館でという事だから、食堂がまだ出来ていないらしい。ということは向って左の工事中の場所が食堂になるのであろう。
 4階まで階段を歩いて昇り部屋に入ると確かに新しい。テレビは大型だし、電話もプッシュホンだ。浴槽は綺麗でこれまで誰も使っていないかもしれない。歯ブラシなどの消耗品は太陽能賓館の文字が入っている。ここは新しいだけでなく、窓からは鳴砂山が見える。なかなか良いホテルの様だ。いや正確に言うならば、良いホテルになるであろうと思われる。テレビでは香港からの衛星放送、中文台(字幕が出て分りやすい)と英語放送のMTV(白黒で映る)。それに何故か雲南電視台が映る。
 6:50にバスが来て、北大街にある太陽能賓館に食事に行く。こちらも結構新しくて立派なホテルである。日本人団体がいくつか居る。食後、8:00に鳴砂山・月牙泉に行く。西の方に来たので日暮がとても遅いのだ。西大街の途中から南下して、民族博物館などを横目に見て入口に到着する。中に入ると駱駝が沢山いて、娘と妻は駱駝に乗って行く。往復15元。
 帰りは小生が駱駝に乗って、前に娘を乗せようとすると泣き出した。行きでこりたらしい。確かにかなり揺れがひどく子供には大変だったろうと思う。聞けば「ラクダ、楽しいねえ」といいながら頭を駱駝の瘤にぶつけて泣いていたそうだ。帰りも私が駱駝に乗っているのを見て「パパ、頑張ってね」と言っていたそうだ。
 ホテルに戻る。フロントでは今お湯が出ています、といったのにお湯が出ない。オアシスの町だから水が出ないのなら諦めも付くが、水は出てお湯が出ないというのは困りものだ。建設中のホテルだから仕方が無いのか。その後バケツでお湯を持ってきたらしいのだが、私は疲れて寝てしまう。

8月11日(星期二)

 今日はいよいよ莫高窟である。甲乙の切符が有るようだが、甲が沢山の窟を見られる。外人は甲のみである。乙では南よりの窟だけしか見られないようである。なお、見られる窟は常に定まっているようである。
 日本人の7〜8人の団体と一緒に回る事になった。窟の鍵を持っているお姉さんと、日本語ガイドが一緒である。
 懐中電燈を借りる。二元で保証料10元と有るから、12元払ってあとで10元帰ってくるのかと思ったら、最初は10元だけ払うのであった。
 ガイドブックなどを見ても分らなかったのだが、窟の番号は大体順序正しくならんでいる。入ってすぐのところは1番高いところが400番台。その下が 300番台。一番下が0番台である。南から北へ歩くと数が若くなって行く。しばらく北に歩くと一番下は20番台位でなくなり、300番台と400番台の2段になる。少し歩くと再び3段になり、一番下の段は20番台から10番台になる。そしてすぐ先に楼が見え、そこに人が集っているので、16・17窟の蔵経洞に行けるのだと分り、嬉しくなる。16窟に入ると、右手に人だかりがしている。言わずと知れた17窟である。17窟の入口は格子がはめてあって入る事は出来ない。覗くと洪ベンの像が見えた。左の方に碑文も見える。ガイドは16窟の説明をしているが、私は17窟に顔をくっつけて見ている。
 420
 428
 427
 55
 61,62,63
 96の北大仏。たしかにでかい。そして見苦しい顔をしている。
 98
 148
 130の南大仏に行けず。人が多いので、午後にしましょう、と言ったと思うのだが、結局見ずじまいだった。
 昼食に戻り休憩した後、午後も午前中と同じグループと回る。
 329
 328
 259
 257
 256
 249
 244
 237
 231
 85
 懐中電燈を返すと、8元呉れるものかと思ったら、二元呉れ、という。そして10元が帰ってきた。最初渡した10元札と同じものの様である。
 展示室らしきものも有るが見られない。

8月12日(星期三)

 午前は西の方に向い、日中合作の映画「敦煌」が撮影された場所に行く。「敦煌古城」と名付けられ、映画村の様になっているようだが、ここから見る鳴砂山はまた違った感じで素晴らしい。更に西に行って鳴砂山の切れるあたりに陽関がある筈である。5元払い、城壁の中に入ると全く映画村である。時代劇の貸衣裳などがある。沙州だけでなくいくつかの町並みを再現している。宋代の「清明上河図」というのを元にしているらしい。『敦煌』の撮影の時に死んだ馬の慰霊碑が立ててあったのが目を引いた。入口近くの録像室では中国語に吹き替えられた『敦煌』を流している。
 ホテルに戻り、昼食まで休憩という話であったが、突然、民俗博物館へ行くことになる。午後からの車の都合の関係だそうだ。民俗博物館は鳴砂山の入口の手前右手にある。春の祭に使うという泥の牛が置いてある。また後手に縛られた男女の像もある。これは岳飛を死なせた二人だそうで、祭の時に、火攻めにするのだそうだ。背中が開いていて、中が空洞になっている。その中で火を燃やすのだが、火の出所である耳の所が黒くなっている。しかし、岳飛といえば南宋の人物で、西域とは縁もゆかりもないのだが、この地で暮らしても、漢民族として、やはり岳飛は英雄なのであろう。このほかに、農民の家、士分の家、という物を復元してあったが、ともかく敦煌独自の民俗、というものはあまり感じられない博物館であった。ここで夜光杯も削っていたが、酒泉に行く事であるし、あまり熱心には見ない。売店で「敦煌訳叢」とか言った本が定価1.5元ぐらいの値であったので買おうと思ったが、5元などと言うのでやめる。
 午後、まず敦煌博物館にゆく。新しい博物館だが、結構いろんな物が置いてある。本物か模造品かは分らないが。觚というのが有ったので、論語を思い出したが、論語のは器の様なもので、こちらのは木簡の様なものであった。
 白馬塔。鳩摩羅什の愛馬が死んだ所だというが、何と言うことも無い所である。塔も随分新しい感じである。お土産屋もかわりばえがしない。鳩摩羅什関係のものでも売っていれば良いのだが。
 沙州古城。白馬塔のある辺りが唐代の沙州城であるのだが、その沙州城の北の壁の残骸がこれであるという。西へ行き「敦煌古城」へ行く道から、白馬塔へ行く為に南に折れた、すぐの所にある。ただの砂の固まりであるので、あまり観光客を自由に登らせたりしていると、その内に無くなってしまうのではないかとも思うが、白馬塔へ行ったバスもここは素通りしているようだ。管理人も居なくてただ、「沙州古城」と書いてあるだけである。上に登る。
 もう一度鳴砂山に行くことになる。今日は旧暦で14日なので、月の沙漠ということになりそうだ。
 夕食後に鳴砂山に行く。入場料は1人2.5元であった。今日は山の方に足を向ける。東に丸い月、西には夕焼けで、なかなか美しい。足がめり込んでなかなかうまく歩けない。山の上からは落下傘の様なもので飛降りさせる商売をやっているようだ。

8月13日(星期四)

 朝食を済ませ、8:00に柳園に向けて太陽能賓館を出発。比較的大きなバスに乗り換えたのは帰りに団体を拾って行くからであろうか。すぐに市街地を抜け戈壁となる。戈壁と言ってもどことなく人手が入っている感じがする。ならしたような感じなのだ。8:45ごろ右手に行く道が有り、安西に行く道であろうと思われる。戈壁は次第に自然な感じに成ってくるが、9:30ごろからは、ボタ山の様な黒い山の中に入って行って、道は上り下り、カーブをする。柳園まで 130kmということだが、9:50ごろ着いて、2時間足らずであった。
 54次の烏魯木齊発上海行に10:50に乗車する。11:07出発。しばらく黒い山の中を行くが、11:20ごろ戈壁の中に入る。
 列車の方は13:00ごろオアシスに入り、13:10疏勒河着。13:32に疏勒河と思しき河を渡る。水がちゃんと流れている。右手の方に祁連山脈が見え始める。13:43、駅を通過。駅名は見えぬが、軍壘であろう。住宅街が有り、六〜七階立ての縦鉱のようなビルもある。通過後、緑地はなくなる。13: 52、玉門鎮を通過、ラジオの発信塔と思われるものなどが立っている。13:55、かなり太目の水無し川を渡る。此辺は線路ぞいが林の様になっているが、これは態々用水路から水を流し込んでいるのである。線路の周囲以外は戈壁である。14:02、列車は低速運転となり、14:07、鄭州−烏魯木齊の特快と擦れ違う。14:10、線路の横に道路が走っていて、バスが走っている。このあたりから、線路の横の林はなくなる。14:21、低窩鋪に停車し貨物列車と擦れ違う。15:00、五華山に停車、北京−烏魯木齊の特快と擦れ違う。此辺は広い緑地帯である。右手に見える祁連山脈は雪山なども有って大変美しい。山の麓に工場なども見える。15:52、南から来た線路が合流する。15:55、玉門に到着。左手を見ると何時の間にか山が見える。三危山の様なごつごつした山である。16:12発車。16:34に大草灘を通過し、暫く行くと小さなダムの湖が見え、更に行くと嘉峪関が見えてくる。嘉峪関駅には16:46着ですぐに発車する。
 17:20ごろ、酒泉駅に降り立つ。列車が発車してしまった後も、向う側に反対方向の上海発烏魯木齊行の列車が有って改札口に行けない。漸く改札を抜ける。今夜の宿は、街の南外れの酒泉賓館である。「酒」の字はさんずいにノツ目という異体字を使っている。新しくてとてもよいホテルのようだ。
 玄関には「雄関乕路」とある。部屋は南向きで祁連山脈が見える。敦煌では鳴砂山が見え、酒泉では祁連山脈が見える。ホテルからの眺めは最高である。
 食事を済ませて、街へ散歩に行く。路を挟んで自由市場がある。車はやはり少ない。北上し鐘鼓楼に行く。文句は「東迎華嶽 西達伊吾 南望祁連 北通沙漠」であった。陳舜臣の本には「朔漠」に作り、「地球の歩き方」には「砂漠」に作っていたが、井上靖のものが一番正確だった訳である。ただ陳舜臣の本は実物を見た訳ではなく、陳コウ雅の「西北邊疆視察記」に拠っていて、陳舜臣ばかりを責められない。この文句は鐘鼓楼の土台の部分に緑色で有るが、本体の西には「光緒乙巳仲秋 氣壯雄關 漢南将瑞題」(1905)、東には「光緒丁未□□ 聲震華夷 建康聶吉儒敬書」(1907)の額が掛かっている。土台はトンネルの様になっていて、通り抜けることが出来る。北の方に立ち、トンネルの向うに祁連山脈を望むと感慨も一入だ。現在上に登ることは出来ないが、東側にある上り口には「雲路先登」の文字がある。井上靖はここに登っているのである。
 夜光杯の工場も近くにあるようなので行ってみるが、夜遅いせいか(八時半)、閉っている。敦煌の夜は遅かったが、ここは比較的早いようだ。

8月14日(星期五)

 嘉峪関に行く。
 西に向い、突き当りを北上して水の有る川を渡る。蘭新公路が工事中の為か通行止めで、右に折れて嘉峪関の市街地を通る。ロータリーの中に女性が何かを背負っているような像がある。雄関公園の所で元の道に戻る。嘉峪関の街の北の方からは工場の黒い煙が立上っているのが見える。嘉峪関に着いて車ごと門に入ったのだが、そこで運転手と門衛が問答していて外賓とか内賓とか言っている。それを察して外人居留証を見せると門衛は納得したようだ。車を降りて見物するが、運転手も付いては来ず、我々だけで参観する。
 ここを叩くと雀が鳴くような音がします、という場所がある。
 ここから見る祁連山脈も美しく、山に向って長城が伸びて行っているのが雄大な気持にさせる。煉瓦が1個しか余らなかった、という所があるが、どれがその煉瓦なのか分らない。ガイドが居ないとは辛いことである。イタリヤ人が居たりして話しかけてくるが、そのガイドに「天下雄関」の文字は何処に書いてあるのか聞いてみると、大門の所にあるという。新しい文字なのだろうか。
 帰りも通行止めは続いていて今度は右折して南に行き、そこから抜ける。ここにもロータリーが有り、労働者の像が有って、「紀念 鋼城的開路先鋒」と書いてある。このへんは鉄鋼の街なのだ。「酒鋼」という工場も有った。
 午後、酒泉公園にゆく。入口から入ってすぐの所に門がある。表に「浩氣英風」裏に「功昭日月」。宣統三年(1911)。葡萄の棚の下を通って泉の方に行く。
 「天若不愛酒酒星不在天地若不愛酒地応無酒泉」と李白の「月下独酌」の第二首が石に刻んである。更に進むと石碑が立っている。

   酒泉古稱金泉相傳有人於此飲水得金而名
   世傳西漢驃騎将軍霍去病出師抵禦匈奴
 建戰功駐兵於此武帝賜御酒遣使犒賞将軍以功
 在全軍酒少人多乃傾酒入泉與将士取而共飲遂
 稱酒泉又云其泉如醴故曰酒泉
   是泉水味甘冽澄清如鏡永無乾涸冬不結冰
 水氣蒸騰状如雲煙蔚爲大觀素負盛名
 裏に、
 「聖清宣統辛亥三月 西漢酒泉勝蹟 安粛兵備使者廷(?)棟立」(1911)
 陳舜臣の本には、酒泉の空港でガイドから聞いた話として、霍去病ではなく李広に、武帝ではなく土地の古老になっている。
 四角に囲んである所が泉である。覗いてみると水がちゃんと湧いている。綺麗な水である。コインが投込んである。泉とは別に大きな池が有り、ボートなども浮いている。
 池の横に「在公柳」という柳がある。由来は分らない。
 売店で「酒泉宝巻」という本を買う。変文の仲間らしい。
 公園から少し街に戻った所に有る博物館へ行く。
 夜光杯の工場に行く。まずはお土産コーナーに連れて行かれる。そこで3つほど買ってから工場を見学する。仕上げの所である。旋盤に泥を塗りながら杯を削っている。荒削りをどのようにするのかも見たいと思ったが、見られなかった。

8月15日(星期六)

 魏晋の墓というのに行く。
 嘉峪関に行く道の途中で右に折れて、羊の群を追散らしたりして、舗装していない凸凹の道を進む。やがて「新城磚壁画博物館」という所に着く。一旦降りるが、ここは違うと運転手が別の所に連れて行く。塚が有ってその横に入口が有り、そこから地下に潜って行く。ひんやりしている。説明はすべて中国語である。文字の解説はないが、暗いからしかたがない。昨日の博物館にも有った壁画である。古拙な、という感じの絵である。博物館の方に行っても展覧室はなく、お土産屋しか無い。壁画をタイル状にしたものを売っている。
17:30発車。
 18:45清水着、18:52発。19:57高台着、20:03発。
 21:00すぎであったと思うが、張掖駅に着く。張掖賓館という新しいホテル(1984)の更に新しい新館(1990)の一階に泊る。窓の外はお寺の様だから大仏寺かもしれない。このホテルは新しいのが自慢らしくカーペットを汚すな、と注意書きがしてあるのだが、中国語では、「汚したら罰金」と書いてあるのに、英語では「It's only reminder.」とある。外国人は宿泊料を高めに払っているからであろうか。

8月16日(星期日)

 朝起きて、カーテンレールに掛けていた洗濯ものを取入れようと窓のところに登ると外が見え、やはりそこは大仏寺であった。「張掖市博物館」「張掖市文物保護管理委員会」という看板もぶら下がっている。
  今日の観光はまず大仏寺、歩いてホテルの裏口から出る。1人6元と言われるが、それは外人料金で内賓は1人2元であった。「宝覚禅寺」と書いてある。寝転がっている仏は確かに大きい。裏に回ると壁画があり、説明によると西遊記の絵だと言う。たしかに猿が戦っている。大仏殿の外には石碑がいくつかあるが、道教関係のものもある。
 博物館もあり、張掖の歴史が説明してある。居延のことを聞くと、内蒙古のほうにあるのだという。確かにこの辺は甘粛省が細くなっていて、北に行けばすぐ内蒙古、南に行けばすぐ青海省である。また井上靖の本に載っていたラク得古城のことを聞いてみると、何も残っていない、という。いずれにせよ観光地とは成っていないと言うことであろう。
 鐘鼓楼にゆく。土台には酒泉の鐘鼓楼と同じ様な感じで、南「迎薫」東「旭昇」北「鎮遠」西「成賓」。それぞれに乾隆歳次丙午、仲夏望日重修、と書いてある。本体には南に大きく「祁連晴雪」の額がある。上には何もありません、といったので、登らなかったのだが、後で見ると「張掖市博物館文物図片展覧」と横断幕が張ってある。またこの鐘鼓楼のトンネルは酒泉の鐘鼓楼の様には潜りぬけることが出来ず、「鼓楼商場」という店になっているようだ。
 木塔寺。萬壽寺。ここは甘粛省張掖中学でもある。ガイドブックに書いてあるように、やはり現在塔の内部に入ることは出来ない。しかし修理している様子は見えない。塔の中を覗くと「登極樂天」と書いてある。木塔というが木で作ってある塔ではない。昔、張掖には木火土金水の五塔が有ったのだそうで、その中の一つだと言う。現在はもう一つ土塔が大仏寺に残っている。ラマ教の様な白い塔がそれであるという。
 これで見る所はなくなったという。地図には西来寺と言うのが載っているが、聞くと小さな寺だという。歩いて、ホテルに戻り、ホテルの入口の売店カップラーメンを買う。蘭州風味である。
 列車は502便、玉門−蘭州。「普客」とあるが、各駅停車なのであろうか。
張掖14:30発
14:40 太平堡。貨物列車と行違う。
14:55 西屯。客車と行違う。
 15:00ごろ、どうしたわけかパスポートの確認がある。工作証も見せる。
 オアシスの外にでたようだが、窓の外は柳園から張掖まであたりよりも緑が多い。
15:04 東楽
15:14 大橋寨
15:29 北湾
15:45 山丹。大きそうな駅であるが、車掌との話であまり見ることは出来ない。
16:00 東明
16:16 紅石泉
16:35 独峰頂
16:44 馬蓮井
16:57 白水泉
17:06 大青陽口。比較的大きな駅である。貨物車があるが、積んでいるのが、何となく大砲の様な感じがする。ホームには短い草が植えてある。
17:19 尖山。駅の横に山があるが、そんなに、とがっているわけではない。
17:30 小青陽口
17:42 ji嶺。候車室もある大きな駅である。空は曇って雨でも降ってきそうな感じである。
17:54 露泉。やや下り坂の様である。
18:06 玉石
18:18 平口峡。遠くに工場地帯が見えてくる。金昌であろう。
18:30 東大山。次の駅名を塗り替えて「金昌」としたあとが見える。地図には河西とあるが、最近、駅名を北の方にある大きな町の金昌に換えたようである。鉄路は大きくS字状のカーブをして次の駅に向う。
18:42 金昌、もとの河西堡である。鉄の町であるようだ。大きな駅で乗降も多い。今まで開いていた隣のベッドに二人組が乗ってきた。18:48発。
19:07 宗家庄
19:16 青山堡
19:24 九ba〔土貝〕
19:46 紅林
20:01 載河ba
20:15 槐安。車を運ぶ貨物車が止っている。
20:28 北河
20:45 武威着。今度の旅行で武威に行けないのは残念な気がしたので、子供を抱いてほんの少し武威駅のホームに立つ。20:52発。武威駅を発車して暫くすると、車掌がやってくる。向いの人が我々を指差して「听不ドン」と言っている。車掌が手帳に何か書いてくれるが字が震えていて良く読めない。「武威南族」とか「睡覚」とか書いてあるようだが、何の事やら分らない。向いの人達が再度書いてくれたのを見て漸く分る。「請馬上清理行李和我們一起換車。此車不走了」。別の車両に行くのではなく、列車ごと新しい車両に移ると言うことのようだ。21:10ごろ武威南駅に着き、荷物を抱えてホームを歩き別の列車に載り込む。同じ号車の同じベッドに行けば良い訳である。はからずも武威の地を歩くことになった。不思議なものである。列車に乗り込んで、なんだかおかしな感じだと思うと、進行方向が逆なのである。しかしなんとなく前の車両よりも新しいような気がする。車掌の書いてくれたものを落着いて読んでみると、「武威南族」と見えたのは、「武威南換車」であった。「換」の字がかなり崩れている。「に們一起□睡覚、叫起来還是12号車。に跟両位先生一起走」。武威南駅を発車したのは随分たってからで、21:55ごろであった。
消灯は23:00。寝ている間に烏鞘嶺を越えることになる。

8月17日(星期一)

 6:30前に目覚める。寝ている間に3800mを越えてきたせいか、耳がゴトッと鳴り、キュンと音がする。はなしによると、夜中にとても徐行運転をしていた所があったという。そこが烏鞘嶺であろうと思う。
6:27 大路駅に停車。
6:45 黄河のような感じの川を渡り、蘭青線と合流、河口南駅に止る。
6:55 トンネルを抜け、7:00に川の横の駅、坡底下に着く。線路は暫く川に沿って走る。
7:10 川から離れる。向うの方に工業の街蘭州らしく、炎を吹上げる煙突が見える。NHKのシルクロードを思い出す。
7:15 西固城。貨物ターミナルなのか線路が多く大きな駅である。回りは市街地になっている。
7:25 陣官営。
7:40 蘭州西、結構多くの人が降りる。
7:55 蘭州着。
 蘭州駅のホームには誰も出迎えにきていない。改札を出た所に居る可能性も有るので行ってみる。殆どの人は改札を出てしまった後だったせいか、改札では切符を見せる必要も無かった。改札を出ると日本語ガイドが居てタクシーに乗って金城賓館へ。雨が降っている。天水路を北上し、蘭州大学を右手に見て蘭州飯店を左手に見るとすぐに金城賓館である。金城というのは漢代にこの地方をこう名付けたもので、隋代に蘭州と改められたようだ。現在、金城という地名は白塔山公園の西に金城関というのがある。ロビーには銅車馬があったり、水車などがあったりする。
 部屋に行くと南向きの部屋で蘭州飯店が見え、蘭山が見える。東側にも窓が有り、下にビヤガーデンらしきものが見える。
 午後、五泉山公園にゆく。天水路を南下し、右折し民主東路に入る。左折して和政路に入り鉄道の下を潜る。右折してしばらくゆくと五泉山公園の入口である。門の所を工事している。九月の頭から第一回シルクロードフェスティバル(首届絲路節)ということで、ここだけでなく街のいたるところで工事が行われている。敦煌でもこの祭の話は聞いたが、ここ蘭州にくるとこの祭に向けて一色という感じである。タクシーの後にも駱駝の絵などを書いた旗が置いてある。
 雨は止んでいるが、下がぬかるんでいる。昭和53年に井上靖が訪れた折の文を読むと、山には一木一草もない、とあるが、今では植樹が進んだのか結構草木が生えている。坂道を登ったり、ベビーカーを抱えて階段を登ったりで、上の方に上がって行く。飴細工屋が居る。三角払って、回転式の籤を回す。差した所の飴を作ってくれると言う訳である。とても大きな龍の飴などが展示してある。
 臥仏殿が有る。三教洞というのがあり、道儒仏である。新しい仏像がおいてある。説明を読むと、もともと孔子の像は早々と別の場所に移されていたが、老子の像と仏像は十年内乱、いわゆる文化大革命で壊されてしまったと書いてある。下の方を見ると、銅像が立っている。地図を見ると中山紀念堂と書いてあるので、孫文である。
 ここで、ガイドに五泉のことをきくと、あまり知らないらしく、探し回る。蒙泉は既に通り過ぎてしまっている。掬月泉、汚い水が溜まっている。摸子泉、入場料をとるべく扉の向うに有るが、工事中とかで見られない。扉の中を覗くと、長い廊下になっていて、泉は暗い所に有りそうだ。まさに「摸」するわけであろう。甘露泉に行くのは骨であった。工事中の溝の上に渡してある板の上を渡ったり、足場の下を潜りぬけたり大変であった。ここは外国人休憩室になっていて、ここでフィルムを買ったが(富士20元)、泉自体は美しくない。恵泉にも行くが、すこし泉が大きいだけでやはり美しくはない。しかし、ガイドさんが五つの泉を探さなければ成らないと言う事は、普通は五つの泉を探すような観光客は居ないと言う事なのであろうか。
 動物園に行く。パンダなど居る。酒泉でもパンダを見ておればパンダ巡りになっていたろうにと思う。「馬鹿」という名前や「赤狐」という名前は日本人には楽しめる。

8月18日(星期二)

 7:20から朝食をとり、7:50ごろ炳霊寺に向けて出発。どうしたわけかタクシーの助手席に途中から見知らぬ女性が乗込んでくる。ガイドではない。運転手の彼女であろうか。席が一つ開いてるぜ、とでも誘ったのかもしれない。しばらく黄河ぞいの道(浜河東路から中路)を西に走る。白塔山公園の下を過ぎたあたりに「蘭州回民中学」などと言うのがあって、さすがだと思わせる。またモスクのある近くに道教協会などというのもあって面白く思う。この道は七里河橋までしか出来ていなくて、その先は出来かけてはいるが、入口は塞がれていて、そこから左折して敦煌路に入る。蘭州西駅に向う道である。西津西路に出て右折し更に西に向う。少し行くと市街地は一旦途切れ、右は畑、左は山、という感じになる。再び市街地になるのは陳官営や西固城のあたりである。やがて道は二手に別れる。右に行けば蘭州空港。我々は左に行く。黄河も我々に着いてくる筈である。山道に入るが、横を流れている黄河には水がとても少ない。劉家峡ダムでせき止めているのであろうが、ということは蘭州市内で見た黄河の水のうち、黄河の本流から流れてきたものはごく僅かということになる。大通河と合流した湟水や北の方から来た莊浪河の水が主ということであろう。
 9:50ごろダムの横の船着き場に到着する。この辺りは永靖県である。おそらく臨夏回族自治州に属していると思う。舟に乗込むが、まだこの舟には我々しか乗っていない。ある程度人が溜まるまでは出発しないということのようだ。10:00に最初の船が出るということであったが、もう1台の、人を満載した船も10:30すぎになってようやく出ていった。我々の船は、日本人のもう1団体と、西洋人の団体が乗った所で出発。11:00ごろである。3時間半位かかるという。大きな湖である。琵琶湖の半分以上は有るであろう。
 出発してすぐに、右は黄河、左はテウ河、という表示が見える。我々の船は右に進む。暫く行くと両岸に港が見え、右岸にはバスや車が止っている。連絡船と言う訳だな、と思ってみていると、船の形に気が付いた。車ごと乗せる船なのだ。
 岸の様子を見ていると、水面からちょっと上の方まで赤くなっている所が有る。最初は、水面が高い時にそこまで有ったのかとも思ったが、ずっと上流の方に行くと、ずっと高い所まで赤くなっている所も有るので、地層ではないかと思う。
 食事は向うに付いてから食べるのかと思っていたら、船中での食事であった。運転手の差し入れである「手抓羊肉」というものもある。羊の肉を似たやつに塩をつけて食う、というものである。食後の片付けは簡単そうで、残ったものは全部自然に帰している。岸で釣をしている人も居るから、魚が居るのだろうし、まあ良いのかもしれない。しかし、運転手が割れた蓮華をも放り投げたのにはびっくりした。ダムと言うものはだんだん土砂が貯まってきて底が浅くなり、治水能力が弱まって行くと聞く。ごみをあんまりぽんぽん捨てると埋るのが早くなってしまうのではないか。それとも黄河の土砂の流入量に比べればたいしたことはないというのであろうか。
 途中から川の色が黄色になる。黄河の色である。ダム湖の所では土砂は深い所に流れ込むのであろう、緑色の様な感じなのだが、川の深さになると、我々の考える所の黄河色になってくる。「黄河だなあ」と思う。
 岸の様子も平たい感じから、奇岩というような感じのものが増えてくる。
 やがて右手前方に船着き場が見えてくる。その辺りを見ていると、岩陰から例の大仏が姿を現す。なかなかに感動的である。船を降りてとても急な階段を登る。そして川の左岸を右に向って歩いて行く。本来ならばそのまま前進する所であるが、昨日の雨で落石の危険が有り前は通行止め、しかし川の水かさがとても少なく川底を歩けるので、右下に降りる。これが黄河なのか、黄河はもっと南の方から注いでいて、これは別の河なのか確かめられない。しかし、劉家峡ダムよりも下流の水かさのとても少ない黄河を見ているので、これが黄河であったとしてもそんなには違和感はない。せせらぎの上に石がいくつか置いてあって、それを踏みながら川を渡る。
 
 15:15 船が出る。
 18:10 船つき場につく。行きより少し速い。
 18:15 帰りの車に乗る。復路は黄河沿いの道には行かず、西津路を直進する。「馬踏飛燕」の白い像が立っている。またシルクロードを繋ごうなどという看板に羅馬・ベニスまで入った地図が書いてあったりする。そのあと車は狭い道の中に入って行く。繁華街を見せようという意図なのであろうか。しかしガイドも無しでは何のことやら分らない。20:00すぎにホテルに着いて夕食。

8月19日(星期三)

 朝食は8:30出発で蘭州ラーメン
 中山橋を渡って白塔山公園に行く。中山橋は黄河北岸と結んだ最も古い橋であるという。ガイドの話によると1960年代にドイツ人の手で作られたという。井上靖の紀行文によると、昭和54年10月1日の黄河新橋の開通によって黄河古橋と名前が変った、とあるが、現在は中山橋と呼ばれているようである。中山路の延長線上にある橋である。幅が少し狭く、車の交差は大変そうである。また井上靖の紀行文には、七里河橋のことは書いていないので、これは黄河新橋よりもっと新しい橋なのであろう。
 白塔山公園はやはり工事中である。ここは五泉山よりも坂が急である。殆ど階段しかない。しかも一昨日の雨のせいか、所々土の有る所はぬかるんで居る。途中に三宮殿とかいう所が有るが、中国の観光地によくあるような類のもののようなので、見ずに上に登る。ようやく白塔の所に行き着く。成吉思汗とラマ僧の関係の塔である。ほかに象皮の太鼓や、鐘などが有った。外人休憩室が有って、夜光杯よりも綺麗な祁連の玉で作った碗が置いて有る。350元だというが、250元まで下がった所で買う事にした。
 ホテルに戻る前に黄河を見に行くという。黄河遊覧船に乗るにしては時間が無い。黄河は白塔山公園からも十分見えたのに、わざわざ行くと言うことは何か見どころがあるのだろうと思っていると、車は西の方に向う。車が止った所は公園の様になっていて(後から地図で見た所、西湖公園であろうか)、「黄河母」という像がある。女媧か何かの像かと思ったらそうでも無いらしい。ただの子供を抱いた母親の像である。川に近づくと堤防の横に階段があって、浜に降りて行ける。羊皮筏子がある。観光用のものである。乗せてくれるようだ。触ってみると意外にバコバコした感じで、空気が満タンに成っていると言う訳でも無いのに、ちゃんと四つ足動物の形をたもっている。口から空気を入れると言うことなのでそんなに満タンには出来ないのも頷ける。子供はブタブタと言っている。確かにそんな感じである内臓などは塩で洗い出すのだそうだ。
 午後、博物館に行く。ここは大きな建物だが、本当に「博物館」で、工業展覧の様なものもやっている。ここも工事中で、一階の部屋は扉を閉ざしている。歴史関係の展示室は二階である。時代順に並んでいるようで、最初の部屋には彩陶が沢山ある。その部屋を出た所に売店が有り25元の彩陶を二つ買う。また「拉卜楞寺嘉祥禪師三世四世的敕印、漢文、蔵文、印度文」と説明してある、印影を売っていたので買う。三元した。漢字では「輔國闡化禪師嘉□樣呼圖□圖之印」とある。奥の部屋に進むと、武威の西夏文字の碑の拓本が有り、例の銅の馬が有った。金城賓館に模造品の有った銅車馬もある。
 ホテルを出て南の方に向かう。途中、食べ物で夜店ふうに賑わいを見せている所が有った。駅の手前まで行って戻ってくる。戻る途中、蘭州飯店の東側のところでこれまた夜店の様にやっているが、こちらはお祭り風で食べ物以外にもありそうだったのでひやかすことにする。ポテトチップが売っている。斜めに巻いた紙に入れて一袋5角だと言う。西安の街で見た日本のポテトチップのようにビニールに入ったやつが10元と言うのに比べると破格の安さである。一つ買ってみるとちゃんとポテトチップの味がして美味しいので、もう二袋買う事にする。
 ホテルに帰り、テレビを見ているとコマーシャルタイムに「広告謎」というクイズをやっている。まず、「数学用語:余角」という字幕が出て、次に「春将去(甘粛地名之一)」と出た。恐らく答えは「臨夏」なのであろう。「余角」というのはヒントな訳だ。

8月20日(星期四)

 朝食も取らずに蘭州駅へ。蘭州は今日も雨だった。128次、蘭州−廣州。手持ちの資料には長沙行きとなっているが、廣州まで伸びたようだ。
 8:25発車。8:35ごろからトンネルを続けて二つ抜けて黄河が見える。このあたりから黄河は北へ向い、鉄路はそのまま東へ向うので、黄河とはお別れである。暫く行って見えた川は、随分水の少ない川である。西に流れて黄河の方に流れ込んでいる筈であるが、よく分らない。
9:06 夏官営着。貨物列車がある。9:09発
9:26 王家湾着。通過する客車と擦れ違う。9:29発
9:46 臨時停車。ちゃんとアナウンスがある。9:49発
9:51 金家村を通過。
10:00 高崖を通過。
10:05から1分40秒ほどのトンネルを潜る。
10:42 定西着。「新彊塩業公司」と書いた貨物列車がある。「西寧−(直快)−上海」と行違う。10:50発。このあたりから南下するはずである。
11:00 景家店?を通過。
11:13 唐家堡?を通過。
11:17 1分15秒ほどのトンネルを潜る。
11:30 停車。11:34発車して36に客車と行違う。
11:42 駅を通過。黄色い水の流れる川沿いである。桃色や白の草花が植わっている。
餐車どうのこうのというアナウンスが聞こえたので食堂車に行くが、団体さんだけしか入れないようで、食券も売っていない。待っていようかと思うが席に戻る。12:00ちょっと前に行ってみると、座席も取ることができた。
12:00すぎに隴西に止る。「隴西の李徴は博学才穎」という文句で馴染んでいるが、ここは未開放区である。李広・李陵も此處の出である。
12:51 鴛鴦鎮着。13:08発
13:11ごろからトンネルが多くなる。まず砂防トンネルらしきものを2つ潜ったあと、渭水が左手に見える。その後トンネルが更に4つほど、また13:24から2つ。
13:30 武山着。13:33発。このあたりから東へ向う筈である。眠くなって来て寝てしまう。暫く寝て目覚めかけると停車する。時計を見ると14:25 である。駅名は分らない。14:30に発車。15:05に駅を通過する。「今、天水だ。ここは麦積山石窟で有名」と言っている。15:20から35ごろまでトンネルの連続である。渭水はずっと、そばを離れず流れている。
15:40 天水着。意外に小さな町のようで、北側には何も無い。南の方を見ても高い建物はなさそうに見えるが、町はもっと南なのだろうか。15:56発車。5分ほどして右手から渭水が幅広くなって現れる。
16:06 社棠に臨時停車し、「烏魯木齊−(特快)−上海」と行き違う。臨時停車といいながらも、駅には物売りが居て、列車に売りにくるから、恒例の臨時停車なのであろう。16:20ごろ発車して、小さなトンネルをいくつか潜る。右手には緑色の山と、黄色い渭水が見える。
16:32 渭水の右カーブで列車はトンネルに入る。1分40秒ほどで出るが、渭水はやはり右手を流れている。
16:36 渭灘通過後、臨時停車する。また行き違うのかと思って線路を見るがここは単線である。16:43発車。
16:57 渭水を渡って、渭水は左手になる。1分ほどで渭水は左の方に去り、列車はトンネルに入る。トンネルを出ると渭水が数百メートル左の方に見える。やがて渭水は再び近づき、列車は渭水を渡る。このあとずっと渭水は右手である。
17:02 駅を通過し、「宝鶏−天水」列車と擦れ違う。トンネルを抜け渭水を渡るが、またすぐに渡って、渭水は右手である。
17:05 トンネルの中なのに鉄橋のような音がする。砂防トンネルなのであろうか。
17:10 建河通過。ここから陝西省宝鶏県だが、まだ車窓の右手は甘粛省である。渭水を挟んで橋も掛かっている。
17:14 毛家庄通過
17:24 鳳閣嶺通過
17:35 拓石通過
17:43 石家灘通過
17:50 柿樹林通過
18:02 東口通過。甘粛省に別れを告げる
18:27 顔家河か坪頭を通過
18:36 固川通過
18:42 トンネルを抜けると渭水が無い。山の向うに行ってしまったのであろうか。南下して渭水に注ぎ込むと思われる小さな川を渡る。18:42再び渭水が現れる。とても幅広い。
18:47 林家村通過。宝鶏市の工場群が見えてくる。
18:52 貨物列車の溜まり場を通過。福臨堡であろうか。
18:58 市街地に入る。山並みを見ている内に渭水は見えなくなっている。
19:00 宝鶏16発。もう薄暗くなってきて景色は見えない。
19:50 蔡家坡57発
21:20 咸陽着。
22:00前。西安着。
 西安では物凄い数の人が降りる。西安も雨である。車は出払っているようである。おいちゃんがやってきて、どこに行くのだというから、外院だというと、 20元、というので、まあ良いかな、と思って行ってみるとなんと三輪車であった。何処に乗るのか、と聞くと、見ろ、ちゃんと座れる、と言う。確かに荷台の両側がベンチの様になっている。そんなに濡れていないようである。乗る事にする。三輪車というものに乗るのは始めてである。日本では殆ど見かける事が無くなった乗物であるが、中国ではよく目にする。何cc位なのかわからないがそんなに大容量ではないと思われるのに、結構飛ばしている。発車しかけのタクシーを追い越したりして、タクシーからパッシングされるが、構わずに飛ばしている。油の匂いが漂ってくるが、2サイクルエンジンなのかもしれない。車は小回りの良さを最大限に生かして、がんがん割り込んで行く。途中先導付きの車の群の中に平気で割込んで行ったのには胆を冷やしたが、何と言う事もなく過ぎて行く。運転手は突然車を止めて、近くの店に向って走って行く。我々の言語能力の低さから、我々に道を問うのを諦めたらしい。
 無事に裏門前に着いたのは十一時前であった。そこから荷物をごろごろと引き摺ってようやく帰宅。お湯はもう出ない。今日は寝るだけである。