ポッポ

三田村鳶魚著作権も切れているし、載せておこう。著作集6巻より。
 大坂町人の相場通信『江戸時代のさま/\』所収
  (初出『太陽』昭和二年十月号掲載)
の後ろのほう。

伝書鴿の使用
 さて安永六年に身振の合図で脅かされた相模屋又市も、三年たてば三つになる。まして七年たっている。天明三年三月十三日の触れを見ると、

相模屋又市…抜商と唱、右高下を記し、鳩の足に括付相放し、又は手品仕形抔にて相図致候者有之。

またしても咎められているが、彼は何として伝書鳩《でんしょばと》の効用を知っていたろう。我等は相模屋又市が二度目に咎められた天明三年から、四十八年後の天保元年に編成した喜多村筠庭の『嬉遊笑覧』に、伝書鳩の記載があるのにさえ驚いている。

鴿〔菟玖波集〕よみ人不v知、「軒の下にて夜をあかすなり、籠の内のねぐら尋ぬるはなち鳥、〔新撰六帖〕「入ぞうきすゝめのひなの手なれつゝしはしも身をばはなれざるらん、よく馴てその家をわすれぬものは鴿なり、和名にいへばとといひ、俗にどばとゝいふ是なり、鴿に書を伝ふる事〔本草釈名〕に張九齢が故事をいへり、また〔八閩通志〕に性甚馴、善認2主人之居1、船人籠以泛v海、有v故則繋v書、放v之還v家、故又曰2舶鴿1とあり。

 張九齢《ちょうきゅうれい》といえば唐代の人であるから、支那の伝書鴿は、大分古い。相模屋又市は書物から得た知識で、伝書鳩を相場通信に利用したのであろうか。彼より前にも後にもない事柄だけに、我等は考えさせられた。しかし米市の商人が特殊な書物を漁って読もうはずもない。しからば全く絞り出した知恵でなくてはならぬ。
 ふと『中陵漫録《ちゆうりようまんろく》』を見た。これは文政度の随筆だがその中に、

山に在る鳩《はと》なり、家に在るは鴿なり、一名飛奴《ひど》と云、予が知己某は麻布に在りて多く鴿を養う、人、時々来て是を求め去て、目黒の不動及此辺の新寺と云に携至て是を放つ、其日の暮には飛帰る、或亦浅草観音の塔に納む、其夕に帰る、此主人云く、凡鴿は能く帰ると雖も一の伝あり、雛よりして黄梁を与て成長せしむ、是を食せしむる時は他の五穀を顧ず、只此黄梁を慕ひ帰来るなりと云、しかれども鴿の性は、遠方より能く帰る者なるが故なり、東呉都卯三余贄筆曰、鳥中惟鴿、性最馴、人家多愛2畜之1、毎v放2数十里或百里外1、皆能自返、亦能為v人伝v書、昔人謂2之飛奴1此説の如し、飛奴の名、開元天宝遺事に見へたり。

とある。この麻布の鴿飼も、随筆学問などに耽ったらしくはないが、鴿の知識を持っていた。実験された飛翔の距離も、麻布から目黒または浅草というので、相模屋又市の堂島と江戸堀及び西高津新地を使用区域としたのと比較される。支那の方が早く開けていたので、日本のよりも距離が余程延びている。といっても支那は六町一里であるから、百里といったところで、我が国の十六里二十四町なのだ。
 も一つ『真佐喜のかつら』という嘉永度の随筆に、御愛嬌な話が書いてあった。これは通信に遣ったのではないが、鴿についての知識は、割合にその筋には拡まっていたように思われる。

雑司ヶ谷辺に軽き身分の老人有、常に酒をたしみけれど、其価の足らざるを歎く、程近き所に官の御薦を飼部屋ありて、構の内には鳩を多く飼置り、或日此屋舗に住る人、かの老人に言様、汝酒のあたひ足らざるを患ふ、我よく工風せり、日々鳩を四五羽づゝ貸べし、是を籠へ入、鬼子母神の門前へ持行、放し鳥に売なば酒のあたへは有べしとをしゆ、老人悦び、翌日より鳩をかり、をしへの通門前にて売切り、老人は彼の方へ礼言んと戻りにたち寄見れば、鳩は皆構のうちに戻りみたり、老人おどろき其故を問ふ、かの人云、かしたる鳩戻らざれば、日々汝に貸事いたらんや、我汝が酒をたしみ、価の不足を歎くを見るに忍びず、一時の戯までなりと一笑して過ぬ。

 鴿が戻って来ることを、誰も知らなかったわけでないにしても、相模屋又市は早いだけ、彼の知恵の凄じさが感ぜられ、いかにも投機商人の敏捷なところが見える。昔といえばばからしく、江戸時代といえば薄ノロばかりいたように思うが、さすがに大坂町人だ。天明三年は今日から算えて百四十三年前になる。
『御定書百箇条』の規定
 相模屋又市が相場通信に鴿を使用した天明三年は、たまたま大槻玄沢か『蘭学階梯』を開板した際なので、阿蘭陀《オランタ》から得た新知識らしく想像されぬでもないものの、それを立証する何ものもない。異人さんのお説教では、大洪水を逃げたノア夫婦の舟の中から、手飼の鳩を放って陸上の減水を知ったと承ったのを筆頭に、二三の鳩通信談を聞かぬでもないが、伝説を離れたところで、個人の使用した例話は、仏蘭西《フランス》革命の時に、廃后マリー・アントワネットがタンブル城中に監禁されながら、手飼の鳩によって評定官との間に通信を交換したという。これは『開元天宝遺事』にある唐代の宮廷物語と同様なものだ。それが支那とは比較にならぬほど遅れているのみか、天明三年からは九年後の寛政三年の話である。また英国のロスチャイルドが、鳩通信によって誰よりも三日早く、ワーテルローの大戦の結果を知ったために、投機で大儲けをして、それから商売人が鳩通信を盛んに使用するようになったという。このゆき方は相模屋又市と同様ではあっても、その最初が文化十二年なのだから、三十三年も遅れている。こうして見ると相模屋又市は目色の違う人々に勝っている。時間の上から、異人まさり、西洋まさりの町人なのが知れよう。我等は天正年中に軍用犬を使用した武蔵松山城の太田三楽と共に、素早いところが嬉しい。イヨ御両人と声を掛けたくもなる。
 幕府は遠目鏡の与三次にしても、鳩の又市にしても、必ず棄て置かずに差し止めてしまう。江戸の法律が新規新法を誉めるのは、その範囲をここまで拡げていた、人心の動揺を偉るほかに、与三次・又市のごとき者の、市利を聾断《ろうだん》ずることを許さぬのである。『御定書百箇条』は幕初からの先例故格の堆積で、その編成は遅れていても、その趣意は終始一貫している。
 だが米穀その他の買占・占売は内乱陰謀と共に、『御定書百箇条』に規定してない。規定してないのは、与三次・又市の取締りのみではない。事の大小軽重となく常にあり、常に用うべきだけを『御定書百箇条』は規定している。故に新規異流として『百箇条』が規定しているのは、神事仏事に限られる。米穀その他の買占めにしても、遠目鏡や鳩の使用にしても、いついかようであっても咎むべきではない。市利聾断といって、ひとり儲けをしょうとする場合にのみ禁制される。時と場合によるのであるから、一定不変の分を記載せる法典のほかに置く。
そうして時々に発令し、人々に所罰するけれども、その法意は不文ながらに、厳然として犯し難い。これは法度を類聚対照するとよく知れる。殊に『御定書百箇条』と並べて読むと、思い半ばに過ぐるものがあろう。しかし『御定書百箇条』の記載に例があって、常を規定して非常を規定しないことを知らないといけない。時々の法度は非常の規定であって、『御定書百箇条』にない部分なのを心付かなけれぽならぬ。従って三日法度などといって、たちまちに行われなくなるようでもあるが、そこにまた大分な意味もある。
 くれぐれも幕府は無闇に世間の進歩発展を嫌って、江戸の法度はやたらに新規新法を禁じたのではないことを知って貰い、勿論法意が正月されてのみはおらぬ。妄用濫用になったこともある。それは執法官の過誤である。

『群書索引』の「鳩」項の「傳書鴿」では、『開元天寶遺事』『輟耕録』に加えて、『五朝小説、明/三餘贅筆』というのが載っています。


これは、
http://blog.livedoor.jp/hisako9618/archives/50854460.html
に触発されて、メモしたものです。

ついでに、桑原隲蔵「大師の入唐」

 唐時代でも、南洋方面から來る貿易船は鴿《はと》を養ひ、之を陸上との交通にも、又は陸地の搜索にも、使用いたして居たが――最近の世界大戰以來持て囃された傳書鴿の使用は、東洋が本場で、十字軍の頃に、東洋から歐洲に傳つたものである――日支間の航海には之を使用せなかつた。從つて我が入唐船が本國を離るるが最後、陸上との交通全く絶えて、一切の消息が通ぜぬので、その心細さは想像以上と申さねばならぬ。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/card2612.html

も引用しておきましょう。「日支間の航海には之を使用せなかつた」……。残念、使用してゐたら……

追記

太田為三郎『日本随筆索引』「鳩」「張九齡か飛奴 随意四ノ二八」は、

○如3陸機之犬。能通2家信1。犬之應2人心1。則往往有焉。張九齡家養2羣鴿1。毎與2親知1。書信往來。以v書繋2鴿足1。飛往投v之。九齡目v之爲2飛奴1。時人無v不2愛訝1。此古今所v未2曾有1也。韻會云。唐明皇。呼v鴿爲2飛奴1。斯因2九齡之鴿1與。未2之審1也。

塚田大峯『随意録』(『日本儒林叢書』第一巻の(「随意録」の)p120)