江崎誠致「裏通りの紳士」の『隠語大辞典』

別の用で本を探していたら、江崎誠致「裏通りの紳士」という小説に行き当たった。集英社新日本文学全集8『江崎誠致城山三郎集』所収である。
http://webcatplus.nii.ac.jp/tosho.cgi?mode=tosho&NCID=BN05642033

出版社の話だが、中に『隠語大辞典』を刊行する女社長の話が出てくるのだ。昭和二十二年から少したった頃、という設定のようである。

元子爵の二号をしていた美貌の女性が、手切金がわりに貰った芝の土地を売りとばし、百五十万円ばかりの資本をつくって、華園書房という出版社をはじめた。出版社には編集者がいなければならぬ。彼女は新聞に三行広告を出し、応募者のなかから弁舌さわやかな刑事あがりだという男を編集長に雇いいれた。(中略)やがて発行の運びとなったのは、〈隠語大辞典〉という編集長の体験をふるに生かした部厚い書物だった。〈ちゃりんこ−子供のすり、転じて少女売春。〉〈ちょぼ−ばくちの一種、または女のあれ。〉といったものから、〈狸のきんたま−悪事露見のたとえ、昨今は狸のしっぽと言う。〉という手のこんだものまで、その数一万三千語におよぶ堂々たる特異な辞典で、見本を手にした満子社長の胸は高鳴った。定価四百円、初版一万部、総額四百万円である。それが何と百万円の原価で出来あがったのだ。もっとも残りの五十万円は三ヵ月ばかりの間に、あらかた編集長と青年に食われてしまったが、それにしても二百五十万の儲けではないか。

出来上がった本を見て喜んだのも束の間で、編集長と助手は姿を消す。売りさばく道を知らない女社長はつてを頼って、舞台となっている出版社へ相談に来るが、定価としては百五十円程度のものであり、たとえ奥付を百五十円に貼り替えても取次店では扱わないからゾッキ屋に売るしかないということになり、一万冊の〈俗語大辞典〉は十二万円になる。

「編集長」が女社長を騙すために選んだのが、隠語辞典であるところが面白い。おそらくは「編集長の体験をふるに生かした」のではなく、糊と鋏による産物なのであろう。あるいは、警察の部外秘の隠語集のようなものをそっくりいただくという意味の「編集長の体験をふるに生かした」ものかもしれない。

モデルはあるのだろうか。現行の『隠語大辞典』ISBN:4774402850集成したものだが、これで「ちゃりんこ」「ちょぼ」「狸……」をみても、似たようなものは見当たらないので、これでは推察出来ない。
13000語程度のもの、というのは、何ページ程度のものになっているのだろう。
文庫サイズの『語源明解 俗語と隠語』(日本言語研究会 岩本書房 昭和24.11.15 235頁 定価百円 http://webcatplus.nii.ac.jp/tosho.cgi?mode=tosho&NCID=BN1567148X 複製)は、項目数2500以下だろうし、『隠語大辞典』によれば部外秘の『隠語符牒集』(1948 法務庁研修所)http://webcatplus.nii.ac.jp/tosho.cgi?mode=tosho&NCID=BA43657973 でも、1700程度のようだ*1。そもそも、『隠語大辞典』全体で18000項目なのだという。

昭和二十年代の一万三千語の隠語辞典、あれば、是非欲しいものだが、多分この数は現実的なものではないのだろう。

*1:『隠語大辞典』に採録されているもの