差別語と語源

ことばことばの6/24「支那ということば」で思い出したこと。

田中角栄が人気があった頃に、自分の子供に「角栄」と名づけた田中さんが居た。子供が大きくなったころ、田中角栄の人気は凋落し、その子は「角栄!」「ピーナツ!」「わいろ!」などと虐められた。親は子供を角栄と名づけたことを後悔し、家庭裁判所に改名の申請を出した。申請は認められ*1、その子の名は「田中角栄」ではなくなった。ここまでは実際にあった話である。以下は想像。
晴れて田中角栄君ではなくなったその子を、なおも「角栄」と呼び続けるいじめっ子が居たとしたらどうだろう(「いじめっ子」でなくともよい。無邪気に「角栄君」と呼んだらとても嫌がった、という話でもよい)。「角栄とは呼んでくれるな」と言っても、「だって、もともと自分で角栄と名乗ったのだろう?」*2


角栄君の場合には新しい名前がついている。「支那」の場合、それに変わる呼び名は何だろう。「中国」がそれにあたる、という考え方には反対の声がある。「中国」は国家としての呼称であり*3、国家としての呼び名ではない「支那」、漢文化の地域を指す「支那」に変わる呼び名が欲しいのだ、と。

「中華料理」「中華そば」などの「中華」は、まさに中華思想だから、外側からは使いにくい。自分が、南蛮北狄西戎東夷であることを認めるわけだから。

亀井孝が書いていたのは*4、「ことを民間のやりとりだけに放置せしめず、政府間でもしかるべく話しあいをこころみ、中・日両国民の合意をとりつける努力をしてほしい」ということ。これはもっともだと思う。亀井孝は、歴史的経緯では、1945年8月の要求は「支那」という文字をやめてくれというものであり、その後も要求はなかったことを前の方で書いているのだが、「こんどはこちらの言うことも――つまり、こちらなりのリクツ――を聞いてもらっていい番かも知れない」として、たたき台としての提案もしている。

支那」は避けるのは今まで通りでよいが、シナがいけないかは別途検討すべきであろう、と。シナがだめなら、チナ、チーナ、あるいはチャイナ、と*5

そういえば、中山大三郎作詞の「無錫旅情」(尾形大作唄)では「チャイナの旅路」でしたし、若い大学生はチャイナ語と呼んでいるらしいですし、チャイナでもいいかな、とも思います。でも、英語でも元はチーナだったのに大母音推移を経てチャイナになっちゃった、そういうのを採用するのは悔しい気もします。由緒を重んずるならば「チナ」がよいかとも思いますが、日本語の問題で、シをチに変えて発音すると、やや茶化し気味に聞こえる向きがある*6ことが問題となりましょうか。


亀井孝には、「しあわせあしき“シナ”のために」(『文学』季刊2-1 1991.1.11)もあります。

*1:安易に有名人にあやかろうとした名付けを戒める文言も添えられたと記憶する。

*2:「このたとえ話は適当ではない、欧米の人がシナと言ってもよいのに日本人が言ってはいけないとされることを無視している」という考えもありましょうが、ここで問題にしているのは、「自分で言い始めたのだから問題ない」という考え方です。

*3:ただし、「中国」という語は「中華民国」成立のずっと以前からあることは忘れてはなるまいが。

*4:「青き炎―敗戦とことば―」『三省堂ぶっくれっと』87。後『ことばの森』(1995.7.10 吉川弘文館)所収。

*5:モンゴル語ややロシア語のキタイ(キャセイも)は「契丹」から来ているけれども、まさか日本がそれに倣うことはあるまい、というようなことも

*6:たとえば、「白」を「チロ」と呼んだときの語感など。