岡本綺堂「半七聞書帳・三河萬歳」

文藝倶楽部の二五巻一号というのが出て来た。
それに岡本綺堂「半七聞書帳巻の一 三河萬歳」というのがあった(pp.2-29)。
捕物帳ではなく聞書帳なのだな、とも思いながら、現行のものとどれぐらいちがうのだろうと、青空文庫のものを見てみた。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card997.html


全然ちがう。
半七の手柄話ではなく、養父・吉五郎親分の話なのだ*1。年代も違う。現行のものでは、「文久三年か元治元年」だとされているが、これは天保二年。三〇年ほど遡る。

『いつも自分の手柄話ばかりするのが能でもありませんから、今度は他《ひと》の手柄話を些と御吹聴申しませうか。』と、半七老人は云った。『いつかもお話をしたことがありましたがわたくしの親分で後に養父になった神田の吉五郎といふ人は文化二丑年の生れで、

と始まる。

今日の詞で云へばまあ職務に熱心とか忠実とか云ふんでせう。

というのもあるが、次のように続く。

吉五郎は横綴の帳面を拵へて置いて、一々丹念に個條書にしてありましたが、慶応二年十一月九日の晩、乗物町から出た火事の時に皆な焼いてしまひました。あれが残ってゐると面白いお話も沢山あったんですが、今思ふと真実《ほんとう》に惜いことをしました。わたくしも養父《おやぢ》の真似をして、養父から平常《ふだん》聞かされてゐた話や、自分が見たり聞いたりした話などを、同じやうな帳面に書き留めて置いたんですが、何しろ筆不精な人間ですから養父の半分にも行きませんでした。

といって、語り始めるのだが、

天保二卯年の十二月、養父の吉五郎が廿八で、これからだん/\に売出さうといふ頃のお話をしませう。何、事件は大きいことぢゃないんですが、その師走の廿七日の寒い朝

という時代設定。

つい眼と鼻の間の出来事であるから、検視のまだ下りない中に吉五郎はすぐに其場へ駈付けて見ると、死んだ男の身体には何にも怪しい疵のあとは無かった。

と、半七ではなく吉五郎で書いてある。


八丁堀同心菅谷弥兵衛など他の人の名は同じようだ。
「お津賀という小粋な女」は二十五六ではなく「廿二三」というのはあるけれど、あとは大体同じようで、終り方も全く同じ。

あった

今井金吾『半七は実在した』に指摘してあった。ちくま文庫p.65など。天保二年のことは書いてないが。

*1:白蝶怪も吉五郎の話である。