齋藤希史*『漢文脈の近代 清末=明治の文学圏』名古屋大学出版会2005.2.28 ISBN:4815805105
を、ようやく手許に置いてみる。もっと早く読まなくてはいけない本だった。

支那」についても論がある。

「相手がいやがる言葉は使わない」というのは、世間知としては有効だが、しかし世間知に過ぎない。一方で、世間知に反発して「支那」を使ったところで、これまで述べてきたようなメカニズムを自覚し、それを超えようとしているのでなければ、たんなる居直りでしかない。
と、結び近くにある。

支那」という語は古くからあるが、明治期になって盛んに使われ始めた、と言われているので、江戸時代の「支那」を調べたくなった。本居宣長『玉勝間』の、

もろこしの國を、もろこしともからともいひ、漢文には、漢とも唐ともかくぞ、皇國のことなるを、しかいふをばつたなしとして、中華中國などいふを、かしこきことゝ心得たるひがことは、馭戎慨言にくはしく論ひたれば、今さらにいはず、又中華中國などは、いふまじきことゝ、物のこゝろをわきまへたるひとはた、猶漢もしは唐などいふをば、つたなしとやおもふらむ、震旦支那など書クたぐひもあンなるは、中華中國などいふにくらぶれば、よろしけれども、震旦支那などは、西の方なる國より、つけたる名なれば、そもなほおのが國のことをすてゝ、人の國のことにしたがふにぞ有ける、もし漢といひ唐ともいはむを、おかしからずとおもはゞ、漢文にも、諸越とも、毛虜胡鴟とも書むに、何事かあらむ、
は有名だろうが。

『西山公随筆』は、本当に水戸光圀(元禄13年没73歳)が書いたのか、知らないが、

一 毛呂己志を称して文字に著には、震旦とか、支那と書べし。漢といへば劉漢にかぎり、唐といへば李唐にかぎり、明といへば朱明にかぎれり。一代の国号を万世に用ゆべからず。然るに震旦、支那は、西域よりとなふる言とてきらふは偏見也。外国は外国の言にしたがふ事多し。或ひは彼方の俗語にしたがひ、唐山と称してもよかるべし。
一 毛呂己志を中華と称するは、其国の人の言には相応なり。日本よりは称すべからず。日本の都をこそ中華といふべげれ。なんぞ外国を中華と名づげんや。其いはれなし。
とのこと。

あと、洒落本は、庶民の文学などではなく、漢文との縁が深いものだけれど、『契情買虎之巻』に、

支那唐《しなもろこし》はいさしらず。わが日《ひ》の本にならひなき。中の丁の夕けしき。
とあるなど、「しなもろこし」「しなてんじく」という言い方は、ちょくちょくあるようだ。